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仏教の来た道

前回の続き。
grrhx770さんがわたしのメッセージ #10820にレスくださったので話が広がりました。
前回のログ2回分重複します。


文字と文化 2010/ 1/ 6 13:23 [ No.10844 / 19685 ]
投稿者 :grrhx770

需要が供給を生むというが。
源氏物語等の物語や歌詞も同じこと。
日本民族が、文字の読み書きが出来ていてこそ、
作家等も、人々の欲求を知って小説や歌を
書く(供給する)
アジア諸国の中で文章を読んで楽しめた
民族は中国と日本だけであろう。





>Re: 文字と文化 2010/ 1/ 6 14:14 [ No.10845 / 19685 ]
投稿者 :hituji3386

>アジア諸国の中で文章を読んで楽しめた
民族は中国と日本だけであろう。 <

そんなことはありません。

インドネシアには5世紀頃からいくつもの王朝が栄え、文字もありました。
http://www.tcat.ne.jp/~eden/Hst/indonesia/kokkano_tanjou.html#2

チベットも7世紀にはインド系の表音文字を持っています。
(Wikipedia【チベット文字】より)




Re: 文字と文化 2010/ 1/ 6 15:32 [ No.10847 / 19685 ]
投稿者 :grrhx770

インドネシア、チベットもありましたか。
知らなかった。





Re: 文字と文化 2010/ 1/ 7 10:41 [ No.10860 / 19685 ]
投稿者 :hituji3386

>インドネシア、チベットもありましたか。
知らなかった。<


学校の日本史では、文化文明は中国韓国から入って来たと習った記憶です。

しかし、東南アジアに行くと、家屋とか風習とか墓とか、日本とそっくりです。
敬語もインドネシアと日本は複雑です。

仏教にはたくさんのサンスクリット語が使われています。
学校で習ったほど日本の社会は中国韓国の影響を受けていないのかもしれない。

そういう目で古代の日本を考えると、まったく違う社会が浮かび上がって、
それがまた、とても自然に現代に繋がっているように感じます。
(ちょっと分りにくい表現ですが・・・)



ただし仏教については複雑で。
初期の仏教は九州と畿内では体系が違っていたと考えています。

畿内の初期の仏教・・・蘇我系の止利仏師の仏教は北魏形式ですから、案外北魏の言葉で導入したかもしれません。
しかし白村江の敗戦以降、畿内も九州系の仏教に取って代わり漢字の発音も呉音が主体となったのではないかと。




Re: 文字と文化 2010/ 1/ 7 12:08 [ No.10862 / 19685 ]
投稿者 :rosskemp09

>仏教にはたくさんのサンスクリット語が使われています。
学校で習ったほど日本の社会は中国韓国の影響を受けていないのかもしれない。

 さあ、これはどうかな?中国においても、仏教にはサンスクリット語が必須だったから。
 司馬遼太郎の『空海の風景』の一節に
「この間、空海はインド僧を教師としてサンスクリット語(梵語)を学んだ、ということが空海自身の文章にある。・・・
 恵果に会ったときはすでに空海はサンスクリット語を理解していた気配があり、恵果自身が空海にすべての法を伝えおえたときのことばに、「さあ、これでみな伝えたよ。瓶から別の瓶へ、水を全部移しきったようなものだ」とあるが、その言葉の冒頭に、「漢梵、差フコト無クシテ悉ク心二受ク」とある。漢梵というのは単に言葉の綾でないとすれば、中国語による密教と言語であるサンスクリット語による密教、という意味であろう。
 この恵果のことばは、空海が記憶し、のち弟子たちに語ったもので『真言付法簒要抄』にある。同書にあってはこの言葉をさらに敷衍して説明し、「漢語とあわせ、梵語によって経典を読む必要がある。漢語のみで経典を読んでいるのは、たとえば女子などのための仮名書きのお経を読むだけで事を済ますようなものだ」と書いている。」
 これは空海が唐に留学していたころの話。サンスクリット語が入ったのは、留学僧が中国から経典とともに持ち帰ったということ。
 だから中国の影響を物語るものでしょう。






Re: 文字と文化 2010/ 1/ 8 4:52 [ No.10873 / 19685 ]
投稿者 :hituji3386

>司馬遼太郎の『空海の風景』の一節に・・・<

司馬遼太郎ですか・・・。
小説ですから当然でしょうが、彼の小説は彼が望む歴史であって事実とは違います。
とはいえ面白いので『空海の風景』は2度読みました。
たしか「空海は天竺に行く予定だった」と書いてありませんでしたっけ?

それより問題は空海は8〜9世紀の人で、日本の仏教導入には関係ありません。
そして仏教導入時の日本にインド僧がいたことも事実です。

インド僧の法道和尚
http://ja.wikipedia.org/wiki/法道
インド僧の清賀上人
http://www.sennyoji.or.jp/message/index.htm

「住吉大社と伊勢の神宮」トピでmeistertufulさんにおしえていただきました。


もう一度書きます。
仏教にはたくさんのサンスクリット語が使われています。
学校で習ったほど日本の社会は中国韓国の影響を受けていないのかもしれません。


それから、興味があるので
「中国においても、仏教にはサンスクリット語が必須だった」というソースが司馬の小説以外にあったら教えてください。




Re: 文字と文化 2010/ 1/ 9 11:30 [ No.10885 / 19685 ]
投稿者 :rosskemp09

>小説ですから当然でしょうが、彼の小説は彼が望む歴史であって事実とは違います。
>「中国においても、仏教にはサンスクリット語が必須だった」というソースが司馬の小説以外にあったら教えてください。

 ただ引用した部分は、史料を紹介した箇所。作者の創作部分ではないよ。
 ウキペディアでも「仏教では最初、ヴェーダ文献の聖性を否定し、より民衆に近い水準の言葉で文献が書かれたため、サンスクリットが使われることはなかったが、大体紀元の前後を境にして徐々にサンスクリットが取り入れられ、仏教の各国への伝播とともに、サンスクリットも東アジアの多くの国々へ伝えられた。日本は中国経由で、仏教、仏典とともにサンスクリットにまつわる知識や単語などを取り入れてきた。その時期は非常に古く、すくなくとも真言宗の開祖空海まではさかのぼれる。」とある。その典拠は「空海の風景」でも紹介されている「真言付法簒要抄」とか「秘密曼荼羅教付法伝」なんかだろうね。
 それに空海が日本に持ち帰ったものの目録「御請来目録」には、梵字真言関係の経典42部44巻が記載されているとか。
 空海は、長安でサンスクリットを学んだのは間違いなかろう。

>インド僧の法道和尚
http://ja.wikipedia.org/wiki/法道
>インド僧の清賀上人
http://www.sennyoji.or.jp/message/index.htm

 法道は、まだ6,7世紀だからいいとして。清賀上人が2世紀ごろ来日したなんて話は、眉唾ですね。

 千如寺も「寺伝によれば仏教公伝前の成務天皇四十八年(一四八)にインドの僧、清賀上人によって開創され、」とは大きく吹っかけたものだが。

http://www.city.maebaru.fukuoka.jp/city/bunka/ito-museum/yakushosite/iseki/seiga.htm
なんて話があって。
 また千如寺と同じ福岡には、
http://inoues.net/club3/aburayama.html
という寺伝をもつ寺院もあって。全く矛盾でしょ?

 そもそも南伝仏教については
http://www.geocities.jp/sarariwoman/hajakensho/kamiza.htm
であって、2世紀ごろにはミャンマーやタイでさえ仏教があったかどうかという状況なのに、そこをすっ飛ばして日本にインド僧が来ていたというのも滑稽だ。

 清賀上人が実在していたとしても、8世紀ごろが妥当なとこでしょうね。






Re: 文字と文化 2010/ 1/10 8:43 [ No.10892 / 19685 ]
投稿者 :hituji3386

>ウキペディアでも・・・<

Wikipedia【サンスクリット>梵語 - 仏教での伝播、日本での一般認識】からの引用ですね。
わたしは「中国においても、仏教にはサンスクリット語が必須だった」というソースを聞きました。

>その典拠は「空海の風景」でも紹介されている「真言付法簒要抄」とか「秘密曼荼羅教付法伝」なんかだろうね。<

そうは言えないと思いますが、お手数ありがとうございました。
自分でWikipedia【中国の仏教】を見てみましたが書いてありません。



>法道は、まだ6,7世紀だからいいとして。清賀上人が2世紀ごろ来日したなんて話は、眉唾ですね。<

おっしゃる通り「清賀上人」は一般的には聖武天皇の頃が正しいようです。すいませんでした。


ご紹介の「上座仏教(南伝仏教・南方仏教)」ありがとうございます。
http://www.geocities.jp/sarariwoman/hajakensho/kamiza.htm

タイやミャンマーなどの仏教寺院は日本の神社にも似ています。
南インドのヒンドゥー寺院は日本の寺院とそっくりです。

http://album.yahoo.co.jp/albums/my/89337/photos/?order=1&page=2

ヒンドゥー教、仏教、神道は同根だと考えています。
日本でも本地垂迹説は根強くあります。

また、インドを含める東南アジアの海洋交易は紀元前から盛んだったと考えていますので、私としては2世紀頃にインド僧が渡来しても不思議はないと思うのですが…失礼しました。





Re: 文字と文化 2010/ 1/11 19:18 [ No.10915 / 19685 ]
投稿者 :meistertuful2007

>>法道は、まだ6,7世紀だからいいとして。清賀上人が2世紀ごろ来日したなんて話は、眉唾ですね。<

おっしゃる通り「清賀上人」は一般的には聖武天皇の頃が正しいようです。すいませんでした。 <

これは、江戸時代とかに
「成務天皇はおかしい。音の近い聖武天皇の間違いだ」
と考えて、書き換えた学者がいたことを示すだけかも
知れないのですよ。(居たことは事実)

とにかく、千如寺の寺伝がそうなっていることは事実。

信じるか否かは別問題だが、
常識だけから、「ありえない」と嘲笑するのは
おかしいと思う。研究課題。

千如寺には代々の住職名簿も伝わっており、
それからの計算でも、二世紀で矛盾しないという
こともある。





Re: 文字と文化 2010/ 1/11 20:44 [ No.10918 / 19685 ]
投稿者 :rosskemp09

>とにかく、千如寺の寺伝がそうなっていることは事実。

 寺伝なら、油山観音(正覚寺)の寺伝では清賀上人は天平年間に来日したことになっている。これも事実。どちらも正しいということはない。(どっちも間違っているかもしれんが)
 
 では、どちらかが正しいとして、どっちだろうかという問題となる。
 そうなれば寺伝を補強する物的証拠なり、状況証拠なりがあるほうが、より信頼性が置けるということ。

 千如寺のほうに、補強証拠があるかね?

 仏教の歴史からみれば、2世紀という段階は、インドにおいてさえ仏教は発展途上。中国にさえ伝わっていないし、東南アジアでもまだ仏教は入っていない。そんな仏教の創世記に、日本にインド僧がきて寺院を建てたというのは、いくらなんでも??。





Re: 文字と文化 2010/ 1/11 23:41 [ No.10920 / 19685 ]
投稿者 :meistertuful2007

>千如寺のほうに、補強証拠があるかね?<

わたしはhitujiさんに、かって、
千如寺に、伝承があることを伝えただけで、
信頼できるとも、信頼できないとも
主張していない。

日本列島への仏教伝来史は
書紀の552年説、或いは538年説があるだけで
ほんとうはもっと古いのではないかという
疑いがある。

例えば千如寺には、
寺伝以外に清賀以来の住職名簿がある。
天平年間とかには別人だった記憶
(いま正確に調べ直す時間がない)

また清賀上人の墓というのもある。
これを発掘するのもひとつの手段。

「よくもヌケヌケと成務天皇時代などと・・」
と嘲笑したひとは、ずっと以前から存在する。
そうしても、仏教初伝の研究には無意味。

研究課題としておくよりない。

わたしは千如寺へ参拝したし、
ご住職と手紙やメールもやりとりし、
得た結果を伝えているだけ。






Re: 文字と文化 2010/ 1/12 11:30 [ No.10930 / 19685 ]
投稿者 :hituji3386

meistertufulさん、またまたありがとうございます。

rosskemp09さんへのレス、軽率だったでしょうか。
論拠が足りない気がして・・・。

でもそうでした。
>とにかく、千如寺の寺伝がそうなっていることは事実。<

これは重要なことでした。


>常識だけから、「ありえない」と嘲笑するのは
おかしいと思う。研究課題。<

はい。
天誅さんが「最古の仏教の痕跡は銅鏡にあるではないか」と言っていました。
新山古墳(4世紀)の三角縁仏獣鏡などですね。

鏡はともかく、お釈迦様は紀元前5世紀の人であり、仏教は紀元前3世紀にはスリランカにあったのですから、海の道は確実に開けていたはずです。
しかし、証拠にはなりません。


>千如寺には代々の住職名簿も伝わっており、
それからの計算でも、二世紀で矛盾しないという
こともある。<

いつも勉強になります。









Re: 文字と文化 2010/ 1/10 14:35 [ No.10895 / 19685 ]
投稿者 :rosskemp09

>わたしは「中国においても、仏教にはサンスクリット語が必須だった」というソースを聞きました。

 それは失礼しました。ただね、唐では法顕、玄奘、義浄以来、サンスクリット語の経典の翻訳を進めている。
 仏僧で、サンスクリット語に通じているのは当然かと。恵果だって、インド僧の不空に師事してるし、空海が法統を受け継ぐときも、サンスクリット語が必要だったし。
 長安には、僧も俗人も多数の外国人がおり、サンスクリット語は身近だったと考えるほうが自然でしょ?

>タイやミャンマーなどの仏教寺院は日本の神社にも似ています。南インドのヒンドゥー寺院は日本の寺院とそっくりです。

 でも肝心の仏教寺院同士は、ぜんぜん似ていないのはへんだが。(ちなみにボロブドール遺跡と東大寺は同時代の仏教寺院。)

 日本の神社が社殿を持つようになったのは、寺院建築が持ち込まれてから。だから割合新しい。

>インドを含める東南アジアの海洋交易は紀元前から盛んだったと考えていますので、私としては2世紀頃にインド僧が渡来しても不思議はないと思うのですが…失礼しました。

では、東南アジアにおける仏教の伝播が、日本より遅いのはなぜだろうか?






Re: 文字と文化 2010/ 1/11 9:31 [ No.10903 / 19685 ]
投稿者 :hituji3386

>長安には、僧も俗人も多数の外国人がおり、サンスクリット語は身近だったと考えるほうが自然でしょ?<

たとえば日本がキリスト教を導入する際、西洋人宣教師と共に聖書の翻訳を進めていたとします。
その場合「日本人クリスチャンには西洋語が必須だった」でしょうか。
たぶん、rosskemp09さんは必須だったと思うでしょうし、私は違うと思います。

ですから推論ではなく、史書に「長安の仏僧にはサンスクリットが必須だった」とあるのだろうかと思いました。

律令制度と共に漢語を導入した日本ですが『空海の風景』にも書いてあった記憶ですが、空海と共に入唐した橘逸勢は中国語が出来なくて空海に代筆してもらっていましたよね。



>でも肝心の仏教寺院同士は、ぜんぜん似ていないのはへんだが。(ちなみにボロブドール遺跡と東大寺は同時代の仏教寺院。)<

ボロブドール遺跡は石で曼荼羅を具現化しているので寺院配置は違いますが、仏様の顔は似ています。
http://album.yahoo.co.jp/photos/1194655/5285253/zoom/l/in/my/90460/

ボロブドール遺跡近くのムンドゥッ寺院内部です。半跏像もたくさん見ました。
http://album.yahoo.co.jp/photos/1194655/3689473/zoom/l/in/my/90460/


>では、東南アジアにおける仏教の伝播が、日本より遅いのはなぜだろうか?<

2世紀というのは論拠ないです。すいません。撤回します。





Re: 文字と文化 2010/ 1/11 11:02 [ No.10910 / 19685 ]
投稿者 :rosskemp09

>たとえば日本がキリスト教を導入する際、西洋人宣教師と共に聖書の翻訳を進めていたとします。
その場合「日本人クリスチャンには西洋語が必須だった」でしょうか。

 今の話をこれに当てはめると、信者の話ではなく、日本人宣教師の話になりますな。
 それに経典の翻訳に、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A8%B3%E7%B5%8C%E5%83%A7
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E8%94%B5%E6%B3%95%E5%B8%AB
とかね。サンスクリット語に接する環境は、中国では相当に整備が進んでいた。
 
 ついでにいえば幕末から明治にかけて、幕府も明治政府は、外国語に通じた人材を大量に吸収したのは周知の事実だ。

>ですから推論ではなく、史書に「長安の仏僧にはサンスクリットが必須だった」とあるのだろうかと思いました。


 推論というより、当然のことだと思うが。

>律令制度と共に漢語を導入した日本ですが『空海の風景』にも書いてあった記憶ですが、空海と共に入唐した橘逸勢は中国語が出来なくて空海に代筆してもらっていましたよね。

 だから留学を切り上げて帰るはめになったんでしょ?

 まあサンスクリットに関しては
http://post.messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=r&board=1835208&tid=a332a6dab8rbxc0ba4h53gol1b2c0b&sid=1835208&mid=10903
を参考に。

>ボロブドール遺跡は石で曼荼羅を具現化しているので寺院配置は違いますが、仏様の顔は似ています。・・・

 でも寺院の様式は日本とは全く違っている。教義も建築でも仏の様式でも仏教美術でも全然違うよね。明らかに。これほど違っていて、わずかに仏像の顔が似ているとすれば、偶然と考えるのが自然でしょう。

 日本の仏教に関して言えば、経典は漢字だし、建築は隋唐の様式だし、仏画も音楽もあきらかに大陸のもの。圧倒的に大陸文化のものだ。
 仏教に関して言えば、東南アジアからの影響を感じさせるものが見当たらないのだが。




Re: 文字と文化 2010/ 1/11 18:27 [ No.10914 / 19685 ]
投稿者 :rosskemp09

 そうそう
http://www.bell.jp/pancho/k_diary-2/subfiles/ennin-1.htm
 これを読めば、唐におけるサンスクリット語の普及もわかる。

 サンスクリット語は、空海がテキスト類を持ち帰ったものの、まだまだ日本での普及は不十分だったらしい。
 空海から約30年後に入唐した円仁も、現地の僧から精力的にサンスクリット語を学んでいる。






Re: 文字と文化 2010/ 1/12 10:59 [ No.10929 / 19685 ]
投稿者 :hituji3386

> そうそう
http://www.bell.jp/pancho/k_diary-2/subfiles/ennin-1.htm
 これを読めば、唐におけるサンスクリット語の普及もわかる。<


『古代日本人と外国語』(湯沢質幸 勉誠出版 平成13年)
  第5章 古代日本人と外国語
  円仁は唐で外国語にどう対処したか
-----------------------
(P209)そもそも梵語はインドの文語である。だから、梵語学習は、必ずしもインド語会話まで必要としなかったはずである。・・・梵語とインド語会話との関係は、近現代におけるラテン語とイタリア語会話や、日本における漢文と中国語会話との関係によく似ている。

(P211)彼の寺(青龍寺)には西国の僧[宝月]有りといへども、未だ多く語を解せず。……彼の寺(大興善寺)には西国の難陀三蔵有りといへども、多く唐語を解さず。

(P212)八四三年一月二八日、僧尼取締りの一環として、長安滞在の外国人僧が軍営に集合させられたが、インド僧は宝月、難陀の二人と、宝月の弟子と見られる者四人の、合わせて六人しかいなかった。

(P215)円仁は、長安到着以前既に、日本僧や中国僧から梵字や梵文のことは教わっていた。梵語の書も学んでいた。その彼がインド僧になによりも望むもの、それはナマの梵音以外にはない。・・・それは『行記』にも、はっきりと記録されている。

(P217)皇帝=武宗の仏教弾圧・・・廃仏政策の激化を恐れて・・・廃仏の嵐の中で強制的に還俗させられた円仁に、やっと帰国許可が出た。
-----------------------





Re: 文字と文化 2010/ 1/12 12:13 [ No.10935 / 19685 ]
投稿者 :rosskemp09

 まあ、引用された部分だけでも、多数の外国僧が長安にいたことはわかる。日本より遥かにサンスクリット語を学ぶ環境に合ったということだ。

「なお、仏教が中国に伝来した当初のいわゆる「古訳」に属する訳経の場合は、サンスクリット等の言語で記された梵経を漢語に翻訳(漢訳)した実態に関して記録が残っておらず、その詳細が明らかでない。しかし、玄奘以後の、「新訳」と称せられる時代の訳経の場合、漢訳された経典の巻首に、経典の題目に続けて、いわゆる「訳場列位」を記す慣習が定着していた。霊仙三蔵の場合も、『大乗本生心地観経』の「訳経列位」に記された記名によって、「筆受」「訳語」の役割を務めていたことが明らかとなっている。この場合も、訳経の中心である「訳主」となったのは、般若三蔵であり、本経は般若訳として経録には記録されている。しかし、実態は、まず、般若が梵文で記された原典を梵語で音読し、それを「筆受」者が書き取り、更にそれを漢字に置き換えるのが「訳語」である。その後、「証義」や「潤文」「参役」などの各種の役割を持った人たちが漢訳経典として適切な経文に校訂し、初めて訳経が完成する。

つまり、新訳時代の訳経事業とは、漢訳組織が確立された分担作業によって成り立っている。その結果、「訳主」として全体をプロデュースする立場にあった人が、訳経者として名を残しはするが、「訳主」は全体の組織の中では、原典を音読するだけであり、現代的な感覚でいう「翻訳」作業に従事するのは、「訳語」者である。それ故に、霊仙三蔵の果たした役割が評価され、三蔵の称号を受けている訳である。また一方では、完成した訳経に対する訓詁的な見地からの疑義を、ひとり「訳主」である三蔵法師に帰する問題として取り上げる見方もあるが、それは、実際の訳経事業の漢訳組織に関する見識を欠いた一方的な解釈であり、注意を要する。」
 ウキペディアからの引用でね。

 日本と違って、サンスクリット語からの翻訳は、多くのスタッフにより組織的に行われていた。

 ともかく東大寺開眼供養の菩提僊那や仏哲の例でわかるがね。インドや南アジアの仏教文化も、いったん中国に集められ、そこから周辺国へ流れていった。日本もその流れの行き着く先の一つだったことは明らかだ。






Re: 文字と文化 2010/ 1/13 7:54 [ No.10950 / 19685 ]
投稿者 :hituji3386

>まあ、引用された部分だけでも、多数の外国僧が長安にいたことはわかる。 …(中略)…
日本と違って、サンスクリット語からの翻訳は、多くのスタッフにより組織的に行われていた。<


再掲しますw
(P212)八四三年一月二八日、僧尼取締りの一環として、長安滞在の外国人僧が軍営に集合させられたが、インド僧は宝月、難陀の二人と、宝月の弟子と見られる者四人の、合わせて六人しかいなかった。





Re: 文字と文化 2010/ 1/13 9:19 [ No.10955 / 19685 ]
投稿者 :rosskemp09

 円仁は、大量のサンスクリット語関係の書物を請来している。「悉曇章」「楚音切韻十四音十二声」「梵字悉曇字母」「唐梵対訳千字文」など、全部で約160部160巻にものぼっている。

 これらは当然日本には無く、サンスクリット研究の先進国である唐でしか得られないものだったわけですな。








Re: 文字と文化 2010/ 1/12 7:35 [ No.10926 / 19685 ]
投稿者 :hituji3386

>推論というより、当然のことだと思うが。<

「思う」のは推論ですwww 



ボロブドール遺跡について。#10892
>でも肝心の仏教寺院同士は、ぜんぜん似ていないのはへんだが。(ちなみにボロブドール遺跡と東大寺は同時代の仏教寺院。)<

とありました。前回アプしてから思い出したのですが、東大寺開眼供養の開眼導師はインド僧・菩提僊那でした。
なぜrosskemp09さんが「仏教は中国から導入した」と言い張るのか不思議です。
というか世間の「仏教は中国から導入した」という常識がヘンだと思います。



> 日本の仏教に関して言えば、経典は漢字だし、建築は隋唐の様式だし、仏画も音楽もあきらかに大陸のもの。圧倒的に大陸文化のものだ。
 仏教に関して言えば、東南アジアからの影響を感じさせるものが見当たらないのだが。<

たとえばバリ島北部 ブサキ寺院(16世紀)は境内配置も雰囲気も日本と似ています。
http://album.yahoo.co.jp/photos/1194655/3720255/zoom/l/in/my/91081/
http://album.yahoo.co.jp/photos/1194655/3720826/in/my/91081/

「東南アジアからの影響」ではなくて、インドネシアのヒンドゥー教と日本の神道や仏教は同根(インド)と思うのです。





Re: 文字と文化 2010/ 1/12 11:48 [ No.10931 / 19685 ]
投稿者 :rosskemp09

>前回アプしてから思い出したのですが、東大寺開眼供養の開眼導師はインド僧・菩提僊那でした。なぜrosskemp09さんが「仏教は中国から導入した」と言い張るのか不思議です。というか世間の「仏教は中国から導入した」という常識がヘンだと思います。

 東大寺といえば華厳経と盧舎那仏で、これは中国伝来。そして金銅仏鋳造の技術も半島由来。開眼供養で披露された舞楽も唐楽。
 そして菩提僊那は、遣唐大使が唐から招聘した高僧。

 なぜhituji3386さんが「仏教は中国から導入した」ことが理解できないのは不思議です。

>たとえばバリ島北部 ブサキ寺院(16世紀)は境内配置も雰囲気も日本と似ています。

 似ているとはとても思えんが。建物は明らかに大陸由来の様式。寺院配置も半島の形式。

>「東南アジアからの影響」ではなくて、インドネシアのヒンドゥー教と日本の神道や仏教は同根(インド)と思うのです。

 神道と仏教って、ぜんぜん違うけどね。似てきたというか、両者が擦り寄ったのは平安時代以降の神仏混交となってから。







Re: 文字と文化 2010/ 1/13 7:28 [ No.10948 / 19685 ]
投稿者 :hituji3386

>東大寺といえば華厳経と盧舎那仏で、これは中国伝来。<

華厳経は中国独自の思想を盛り込んだわけではなく、梵字から漢字に置き換えただけです。
毘盧舎那仏もヴァイローチャナ・ブッダの音写ですし、仏教に関して中国はストローです。



>そして金銅仏鋳造の技術も半島由来。<

ソースをお願いします。



>似ているとはとても思えんが。建物は明らかに大陸由来の様式。寺院配置も半島の形式。<

妹の亭主氏が上海によく行きます。で、わたしと亭主氏で中国のことを語るわけです。
妹はA型で大変素直なのでフンフンと聞いていました。

その妹が一昨年、初めて上海に行きました。んで。
「ショック、カルチャーショック。ヨーロッパよりずっと異質!」
その詳細はわたしと亭主氏が語っていたことなのですが。

パックツアーではなく、中国人ガイドもつけずに個人で行ってください。

ていうか、ブサキ寺院の境内配置をみても似ていないというのがわかりません。
ブサキ寺院には奥の院があります。ジャワ島ソロの寺院にも奥の院がありました。

中国の寺に奥の院はあるのでしょうか。ググっても日本の中国地方が出て来るのでわかりません。
同じ仏教ですからあるはずだと思うのですが。

思い出したのですが、天台山周辺の寺院は日本の寺院と似ていました。
しかしそれは雲南の少数民族が日本に似ているのと同じで中国文化が日本と似ているというのとは意味が違うと思います。

半島に関しては、北魏の様式が新羅に伝わって、蘇我氏が取り入れた経緯はあると思いますが、
百済は太宰府の保護国でしたから、南宋からの文物は太宰府経由で百済に行っているはずです。

何度も書きますが隋書には百済と新羅が倭を尊敬して仰いでいたとあります。





Re: 文字と文化 2010/ 1/13 9:01 [ No.10954 / 19685 ]
投稿者 :rosskemp09

>華厳経は中国独自の思想を盛り込んだわけではなく、梵字から漢字に置き換えただけです。毘盧舎那仏もヴァイローチャナ・ブッダの音写ですし、

「中国において、大乗仏典の代表的な華厳経を究極の経典として、その思想を拠り所として独自の教学体系を立てた宗派。開祖は杜順(557年-640年)、第2 祖は智儼(602年-668年)、第3祖は法蔵(643年-712年)、第4祖は澄観(738年-839年)、第5祖は宗密(780年-839年)と相承されている。この中国の五祖の前に、2世紀頃のインドの馬鳴(アシュバゴーシャ。カニシュカ王の友人。)と龍樹(ナーガルジュナ)を加えて七祖とすることもある。

日本における華厳宗は、第3祖法蔵門下の審祥(しんしょう)によって736年に伝えられた。金鐘寺(後の東大寺)の良弁の招きを受けた審祥は、この寺において華厳経・梵網経に基づく講義を行い、その思想が反映されて東大寺盧舎那仏像(奈良の大仏)が建立(743年-749年)され、明恵によって密教思想が取り込まれ、さらに凝然(ぎょうねん)による教学の確立がなされた。南都六宗(なんとりくしゅう)の一つ。」
 ウキペディアより。
 これが日本に来た経緯。

>仏教に関して中国はストローです。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E4%B9%97%E4%BB%8F%E6%95%99

 それでも中国、朝鮮、日本と伝わった後で、東南アジアにも広がっているね。(これも中国経由)

>ソースをお願いします。

 ソースってほどでもないが。
http://www.bunkaken.net/index.files/kihon/bushi/kimimaro1.html


>ブサキ寺院の境内配置をみても似ていないというのがわかりません。
ブサキ寺院には奥の院があります。ジャワ島ソロの寺院にも奥の院がありました。

 いま仏教伝来の頃の話だったんじゃ?どうしていきなり16世紀の寺院を持ち出してきたのか、意味がわからん。
 ボロブドール遺跡と東大寺。この伽藍配置には何の共通点も無い。

 日本の寺院であれば、五重塔が多数乱立していることもないし、堂を結ぶ回廊も無い。決定的に違う。
 鎌倉、室町時代の京都の寺院と比較になるのだろうけど。

 そうそう、仕事でマレーシアへ出張した時だが。現地社員が「日本の寺があるからお参りするか?」というので案内してもらった。

 ところが案内されたのは、華僑が主として参詣する寺院だった。

 瓦屋根の入母屋作り、中に仏像があって線香、ローソクが並んでいる。こうして書けば、日本の寺院にも似ているように思えるが。雰囲気はまるで違う。でも東南アジアの人は、これをみて日本の寺を想像しているだね。
 
 ただあなたや妹さん後夫婦は、インターナショナルだね。私は日本人だから、東南アジアの仏教寺院を見ても、日本との違いしか実感できなかった。

>思い出したのですが、天台山周辺の寺院は日本の寺院と似ていました。

 似ているというのは感覚だけど。似ていてもいいんじゃない?天台山は、日本仏教の大きな源流の一つだから。天台山−半島ー日本だね。

>何度も書きますが隋書には百済と新羅が倭を尊敬して仰いでいたとあります。

 高句麗もだよ。聖徳太子の師匠の恵便は、高句麗から派遣されてきた。






Re: 文字と文化 2010/ 1/14 9:46 [ No.10980 / 19685 ]
投稿者 :hituji3386

>この中国の五祖の前に、2世紀頃のインドの馬鳴(アシュバゴーシャ。カニシュカ王の友人。)と龍樹(ナーガルジュナ)を加えて七祖とすること もある。<

ですから華厳経はインド僧が中央アジアでまとめた教典です。

>ウキペディアより。
 これが日本に来た経緯。<

ですから仏教に関して中国はストローです。


>それでも中国、朝鮮、日本と伝わった後で、東南アジアにも広がっているね。(これも中国経由)<

インドネシアもタイもミャンマーもチベットも文字はインド系文字です。
韓国とベトナムは中国に直接支配されて漢字を使いました。
不思議なことに、日本だけが漢字を自ら取り入れました。

日本が漢字を取り入れたのは、仏教よりも儒教と律令の導入が大きかったと思います。


>ソースってほどでもないが。
http://www.bunkaken.net/index.files/kihon/bushi/kimimaro1.html

ソース長すぎwww てゆうか、東大寺の大仏建立は時代がくだり過ぎです。
さらに造仏長官が百済系3世だそうですが、3世の技術は「半島由来」の根拠になりません。
(そのまえに、日本書紀にある百済の文化人は太宰府の文化人だと考えていますので納得できる話ではありません。)

それよりも、日本には巨大な銅鐸を鋳造する技術の蓄積があったことを忘れないでください。




>ところが案内されたのは、華僑が主として参詣する寺院だった。
 瓦屋根の入母屋作り、中に仏像があって線香、ローソクが並んでいる。こうして書けば、日本の寺院にも似ているように思えるが。雰囲気はまるで違う。<

そうなのです。
雰囲気が違うので私も驚きました。私も最初は日本文化の原郷を求めて中国に行ったのです。
北京や上海の寺院も台湾の寺院も同じです。日本の寺院とはまるで雰囲気が違います。

中国の仏教寺院とインドネシアのヒンドゥー寺院を比べると、インドネシアの寺院の方がずっと日本の寺院に似ています。
8世紀とか16世紀とか現代とか混ざりましたが、文化文明のありようが、日本と中国は違い過ぎる。
日本人はインド・インドネシア・タイ・フィリピンなど、中国の周辺国と深い関係にあると考えています。


そして、中国の仏教よりも、インドの仏教を好んだ結果が空海や円仁の梵字・梵音へのこだわり、東大寺開眼供養のインド僧招来に現れているといると思います。


>天台山−半島ー日本だね。<

漢城を追われ熊津を追われ泗沘にいた百済にそんな文化はありませんでしたし、東大寺建立の頃は既に滅んでいます。





Re: 文字と文化 2010/ 1/14 12:58 [ No.10985 / 19685 ]
投稿者 :rosskemp09

>ですから華厳経はインド僧が中央アジアでまとめた教典です。
 
 それが4世紀から5世紀にかけて中国で漢訳され、流布。そして朝鮮を経て日本にわたった。

>ですから仏教に関して中国はストローです。

 東南アジアのほうが、もっとスローだけどね。

>不思議なことに、日本だけが漢字を自ら取り入れました。日本が漢字を取り入れたのは、仏教よりも儒教と律令の導入が大きかったと思います。

 朝鮮半島は、中国の直轄領土として4世紀まで漢字文化が流入した。日本は、その半島の移民から漢字文化を摂取した。

>ソース長すぎwww てゆうか、東大寺の大仏建立は時代がくだり過ぎです。
さらに造仏長官が百済系3世だそうですが、3世の技術は「半島由来」の根拠になりません。

 東大寺の大仏鋳造は、いきなりじゃない。その前に百済系渡来人の仏師によって金銅仏の製作技術がもたらされている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9E%8D%E4%BD%9C%E6%AD%A2%E5%88%A9
 彼に代表される、渡来系仏師の技術によって作られた。

>それよりも、日本には巨大な銅鐸を鋳造する技術の蓄積があったことを忘れないでください。

 だからその日本人技術者が国中真麻呂の手足となって働いたからこそ、世界最大級の大仏鋳造というビッグプロジェクトができたんじゃないか。あれほどの作業が、数人の技術者だけでできるはずがない。熟練の職人多数が参画しなけりゃできるはずが無いだろ。

 弥生時代から、日本には銅鐸を作る技術があった。それは金銅仏製作に応用が利く。
 でもって日本に金銅仏が作られたのは、飛鳥寺とかの6世紀ごろだろ?
 それまでは無かった。技術はあるのに仏像は作られていない。
 理由は仏教が入っていなかったからだ。だから当然仏像は作られなかった。2世紀ごろ、インド僧がきて仏教を伝えたという話は、ここからも否定できる。
 そのことを、わざわざ指摘していただいたことを感謝する。

>中国の仏教寺院とインドネシアのヒンドゥー寺院を比べると、インドネシアの寺院の方がずっと日本の寺院に似ています。
 
 同じ仏教寺院同士を比べると、日本の法隆寺や東大寺、四天王寺と、アンコールワット、ボロブドールという東南アジアの寺院は全く似ても似つかない。
 それより朝鮮半島の寺院、ひいては中国の寺院のほうが遥かに似ている。

 日本の仏教がどこから着たかは、一目瞭然なわけだね。

>東大寺建立の頃は既に滅んでいます。

 もちろん。でも仏教が来たころには、百済は存在していた。高句麗も新羅も存在し、それぞれが日本と同盟するために、仏僧や仏像仏具、黄金などを贈ってきていた。






Re: 文字と文化 2010/ 1/14 13:31 [ No.10987 / 19685 ]
投稿者 :hituji3386

>東南アジアのほうが、もっとスローだけどね。<

中国と比べて東南アジアのどこがストローですか?

『華厳経』も『法華経』も『涅槃経』もインドで完成しています。
なにか中国独自の教えが加味されているのですか。

そのうえ中国では度々宗教弾圧があります。
文化大革命での破壊の凄まじさは・・・あまり詳しくないですが、知っているだけでも酷いものです。



>朝鮮半島は、中国の直轄領土として4世紀まで漢字文化が流入した。日本は、その半島の移民から漢字文化を摂取した。
…(中略)…
もちろん。でも仏教が来たころには、百済は存在していた。高句麗も新羅も存在し、それぞれが日本と同盟するために、仏僧や仏像仏具、黄金などを贈ってきていた。 <

韓国語の影響が日本語にないのはなぜですか?




Re: 文字と文化 2010/ 1/14 16:01 [ No.10991 / 19685 ]
投稿者 :rosskemp09

>『華厳経』も『法華経』も『涅槃経』もインドで完成しています。なにか中国独自の教えが加味されているのですか。

 ざっといえば、中国における仏教が大いにすすんだのは、5世紀からだといわれている。鳩摩羅什と、その中国人弟子の慧遠、慧観、道生なんかが中国仏教の発展に寄与した。

 それはともかく、日本の仏教が中国伝来のものだということは判った?

>そのうえ中国では度々宗教弾圧があります。

 にもかかわらず、仏教は生き延び隆盛となったがね。

>文化大革命での破壊の凄まじさは・・・あまり詳しくないですが、知っているだけでも酷いものです。

 今の話題には、何の関係も無いがね。

>韓国語の影響が日本語にないのはなぜですか?

 無い事は無いと思うがね。でも渡来人については、彼ら独自の文化よりも、彼らが媒介した中国文明のほうが影響はあったな。






Re: 文字と文化 2010/ 1/18 2:11 [ No.11052 / 19685 ]
投稿者 :hituji3386

レス遅くなりました。

>ざっといえば、中国における仏教が大いにすすんだのは、5世紀からだといわれている。鳩摩羅什と、その中国人弟子の慧遠、慧観、道生なんかが中国仏教の発展に寄与した。<

東大寺開眼供養で中国仏教ではなくのインド僧を招来しているのはなぜですか。



>それはともかく、日本の仏教が中国伝来のものだということは判った?<

誰かを説得したいのではなく、怠け者で自分ひとりでは勉強がはかどらないのでここに来ています。
本当の古代の姿を知りたいと思っています。


マレーシアの華僑の寺院(中国仏教)に日本とは異質なパワーを感じたrosskemp09さんが、なぜ日本が中国文化を導入したと言張るのかわかりません。




>>韓国語の影響が日本語にないのはなぜですか?
 >無い事は無いと思うがね。でも渡来人については、彼ら独自の文化よりも、彼らが媒介した中国文明のほうが影響はあったな。<

百済人が中華文明を持っていたのではなく漢の出先機関だった漢城に中華文明があったのです。
漢城を追われた百済が中華文明をもっていたわけがなく、日本は中華文明に興味があれば直接中国から仕入れたでしょう。





Re: 文字と文化 2010/ 1/15 11:17 [ No.11008 / 19685 ]
投稿者 :rosskemp09

>韓国語の影響が日本語にないのはなぜですか?

 日本も朝鮮も、文明の黎明期には漢字文化を中心にすえた。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%83%E5%AD%97%E6%96%87

 こういうものが当時の朝鮮で積極的に導入され、朝鮮を通じて日本にも伝わった。日本ではこうして得た漢字を基礎に、かな文字を作り出した。

 日本語が漢字かな文字を使うこと自体が、古代の日本が中国と朝鮮の影響を受けたかという証拠であるな。






Re: 文字と文化 2010/ 1/18 2:58 [ No.11059 / 19685 ]
投稿者 :hituji3386

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%83%E5%AD%97%E6%96%87
 こういうものが当時の朝鮮で積極的に導入され、朝鮮を通じて日本にも伝わった。日本ではこうして得た漢字を基礎に、かな文字を作り出した。<

隋書の「新羅や百済は皆、倭を大国で珍物が多いとして、これを敬仰して常に通使が往来している。」をどう解釈していますか?
http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kanbun/wakoku-kanbun9-zuisho.htm


「千字文」については、王仁が伝えた「文字」のことだと考えています。
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=m&board=1835208&tid=ffckdc8la4n5af8bb&sid=1835208&mid=7592&thr=7553&cur=7553&dir=d





Re: 文字と文化 2010/ 1/18 11:53 [ No.11067 / 19685 ]
投稿者 :rosskemp09

>隋書の「新羅や百済は皆、倭を大国で珍物が多いとして、これを敬仰して常に通使が往来している。」をどう解釈していますか?

 外交ですよ。当時東アジアは、中華帝国を中心に回っていた。半島の三国は、隋唐と合従連衡を繰り返していた。しかしそう簡単に隋唐の言いなりになるのも、独立国としては面白くない。
 例えば百済にしても、一国では対抗すべくも無いが、同盟国があればある程度ものも言える。
 そこで日本の存在が大きくなる。百済も新羅も、隋唐に対して、日本の存在をほのめかす。隋唐としては、日本のぶんだけ百済新羅に対して譲歩せざるを得なくなる。
 まあそういうことですね。

>「千字文」については、王仁が伝えた「文字」のことだと考えています。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%8B%E4%BB%81

 王仁は、応神天皇の求めに従って渡来し、皇族の教師となって漢籍を講じた。もちろん対中国外交の重要性を考えれば、天皇家の一員としては絶対不可欠の素養だし。その教師を百済から招聘したのは、当然の話だね。

 千字文は、そのためのテキストだったわけだ。






眠くてダメだ。途中だけれど続きはあとで。
・・・続きを見たら論点が移っていたので一旦ここで切ります。


#10860
初期の仏教は九州と畿内では体系が違っていたと考えています。

畿内の初期の仏教・・・蘇我系の止利仏師の仏教は北魏形式ですから、案外北魏の言葉で導入したかもしれません。
しかし白村江の敗戦以降、畿内も九州系の仏教に取って代わり漢字の発音も呉音が主体となったのではないかと。


と書きました。
この件に関してはこれ以前に無党派さんに助けてもらって考えが進みました。
白村江の戦いは九州倭国と唐新羅連合軍との戦いであり、壬申の乱の舞台も太宰府だったと確信するきっかけとなりました。
ログを探して復習したいと思っています。





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