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【百済伝説13】師走祭調査報告書の検証まとめ

これまでに書いてきたことと多くが被るのですが、役場に送ったメールを転載します。


差出人: XXXX@XXXXXX.ne.jp
件名: 百済伝説について検証しました
日時: 2010年11月25日 10:25:25:JST
宛先: XXXX@tXXXXXXXXXX.lg.jp



美郷町役場 様

百済伝説について煩わしいメールを送り続けています。
わたしの歴史観が間違っていたらご迷惑をかるだけなので周りに相談したのですが、歴史に詳しい人ほど百済伝説に否定的です。

今、尖閣問題で日本が揺れていますが、尖閣諸島と百済伝説は似ていると思っています。
尖閣諸島を中国に譲ってしまうと沖縄も九州も日本も危なくなってしまうのと同様、百済伝説を受け入れることは「日本の文化文明は全て韓国に起源がある」という歴史観の足がかりになってしまうと恐れています。

「日本の神仏の辞典」(大修館書店 2001年)で「神門神社」を見ると、どん太郎さんについては書いてありますが百済については一言も触れていません。
しかしご紹介いただいた「NHK歴史発見15 九州山地・謎の百済王伝説」(角川書店 1994年)はじめ多くの書籍が百済伝説を取り入れ、インターネットで「神門神社」を検索すると神門伝説を書かないサイトはない状態です。

どうぞ、江戸後期に突然現れたうわさ話を根拠に自国の文化伝統を歪めることは止めてください。
町の広報や資料館の説明は伝説と史実を分けてくださることを祈りながら書きました。

なお、引用部分を色文字にするためリッチテキスト(RTF形式)で作成し、同じものをワード形式でも添付させていただきました。
(わたしの環境がMacのためです。)

百済伝説の検証は送っていただいたPDF「日向南郷神門神社・木城比木神社の師走祭調査報告書」を引用しながら進めました。
タイトル前の数字はPDFの数字に対応しています。
PDFからの引用部分は緑文字
PDF以外からの引用部分は青文字
強調したい部分は赤文字で記しました。


どうぞよろしくお願いします。







7世紀の倭と百済
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PDF「日向南郷神門神社・木城比木神社の師走祭調査報告書」を検証する前に7世紀の状況を確認しておきたいです。

7世紀の倭は隋書に「新羅や百済は皆、倭を大国で珍物が多いとして、これを敬仰して常に通使が往来している。」と記されています。
また、607年には隋に「日出ずる處の天子…」の国書を渡し、煬帝を怒らせたのは有名な話です。
隋の皇帝を怒らせたにもかかわらず、翌608年には裴世清が倭国に派遣され「其人同於華夏 以爲夷州疑不能明也」(王国の人々は華夏人と同じで、蛮族と言われるのは理解出来ない)と報告しています。
http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kanbun/wakoku-kanbun9-zuisho.htm
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A3%B4%E4%B8%96%E6%B8%85


同じ頃の百済は漢城(ソウル)を追われ、熊津(公州)を追われ、泗[シ比](扶余)にあり、王子を倭に人質として出し援助を乞うていました。扶余郡はご存知の通り小さな地方都市です。


百済の王子は人質だったのですが「百済から王子を迎えることで仏教をはじめとする百済の進んだ文物を取り入れることができた」という学者が少なからずいます。


たしかに隋書は百済について「俗は騎射を善くし、書史を読み、官吏は良く仕え、また医薬、蓍龜、観相術を知っている。両手を地に着けて敬意を示す。僧尼がおり、寺塔が多い。鼓角、箜篌、箏、竽、箎、笛の楽器があり、投壺、囲碁、樗蒲、握槊、弄珠の遊芸がある。」と評しています。
しかし同時に「そこの人は新羅、高句麗、倭などが混在しており、また中国人もいる。」ともあることには触れたがりません。
http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kanbun/kudara-kanbun7-zuisho.htm


繰り返しになりますが倭は裴世清に「華夏人と同じだ」と言わしめ、なにより「新羅や百済は倭を敬仰し」ていたのです。
隋書が示した百済の文物には倭から伝わったものもあるかもしれません。

例えば有名な武寧王の墓が中国南朝の様式を取り入れ、南朝舶来の副葬品が豊富なことは有名ですが、王が九州で生まれ、王の棺が日本のコウヤマキで作られ、日本独自の勾玉が副葬されている一方、百済製の土器がひとつもないことをご存知でしょうか。

このことにも触れたがらない日本の学者がたくさんいます。
そして「古代日本は遅れていて半島から進んだ文物が入ってきた」というのが日本アカデミックの定説です。
私も長い間そうだと思っていました。

しかし調べれば調べるほど、嘘でした。
解説書ではなく原典や遺跡の出土状況を調べて嘘だとわかりました。









02 序章 南郷村の概要
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P04 王族の墓といわれる古墳 (塚の原古墳(県指定)も実在している。
↓ ↓ ↓
百済が滅亡したのは660年ですから、墓は7世紀後半以降に作られたはずです。
ところが、塚の原古墳は前方後円墳だとあります。
http://nanjaroka.jp/siseki/tukanohara/image/tl1.jpg

前方後円墳の築造はおおむね6世紀末までです。
百済の王がなぜ日本独特の墳形でなおかつ流行遅れでもある前方後円墳に埋葬されているのでしょう。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%8D%E6%96%B9%E5%BE%8C%E5%86%86%E5%A2%B3



P06 この道路は、当時、山また山のこの地方における唯一の動脈であった。
大阪と直接取引きの商人もあらわれ、三軒の遊郭が軒を並べたところも
あって、山間地では珍しい市街地を形成した歴史があった。

↓ ↓ ↓
神門神社は秘境に建てられたのではなく交通の要所だから建てられました。

交通の要所にあった神門神社ですから奉納品が豊富だったのは頷けます。
それらがたくさんの銅鏡であり布吊墨書であり36歌仙絵であり大量の鉾でしょう。

銅鏡はほとんどが国産鏡ですから百済は関係ないですし、布吊墨書も鎌倉・室町期の織物であれば百済とは時代が違います。
36歌仙絵も鉾も同じです。奉納品に百済との関係を示すものは皆無です。






03 第1章 日向南郷神門神社・木城比木神社師走祭り
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第1章の師走祭りの様子から百済の要素を除くと、日本各地にある冬至祭りのひとつだと理解できます。

百済伝説を「神社境内書上帳」「日向襲高千穂神代囲」「利国大明神書上」「高千穂採薬記」「高山彦九郎筑紫日記」の原典を引用して説明していますが、実際に百済王の名前があるのは江戸末期の「高山彦九郎筑紫日記」だけです。
違う言い方をすれば、高山彦九郎以前に百済伝説の資料はありません。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%B1%B1%E5%BD%A6%E4%B9%9D%E9%83%8E
http://www5.wind.ne.jp/hikokuro/index.htm
http://www5.wind.ne.jp/hikokuro/nikkiitiran.htm#%E7%AD%91%E7%B4%AB%E6%97%A5%E8%A8%98

高山彦九郎は国を憂い日本中を旅した尊王の志士です。
高山彦九郎の日記が最古の資料であるならば、彼はどこで百済伝説を知ったのでしょう。

参考となるのは神門神社を訪れる前の熊本滞在の50余日のほとんどを高本紫溟氏宅に滞在していることです。
高本氏の祖は秀吉の朝鮮出兵の際の帰化人であり、日記には高本氏との濃い交流が記されています。
http://www.geocities.jp/sinwanosato/new_page_113.htm




次に『高山彦九郎日記』(西北出版 1978)から気になる部分を引用します。

日記●P136(寛政4年1月6日)
…高本氏へ帰る壱里に遠し、道西の中腹松見ゆ 阿蘇大宮司の昔 十二歳なるが太閤への讒人の為めに切腹し所に埋葬し墓の木なるよし李綸が語りける
 ↓ ↓ ↓
前日5日の日記に「高木父子案内」とありますから李綸は高本紫溟の息子と思われます。
12歳の阿蘇惟光を切腹させたのは、時代と状況を考えれば仕方ないことと思われます。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E8%98%87%E6%83%9F%E5%85%89



日記●P171(寛政4年2月26日)
…小野村といふ有り 太閤秀吉薩摩攻の時に近習の士を殺したりとして一村悉く死刑に行はれしとなん
 ↓ ↓ ↓
史実にありません。



日記●P173(寛政4年2月27日)
…上宮山を三室山共称す、廟を百済国淋聖太子の廟共いふ何レ詳かならず、
 ↓ ↓ ↓
高山彦九郎も詳かではないと書いている通り、琳聖太子は実在が認められていません。
http://kyushu.yomiuri.co.jp/magazine/rekishikou/008/re_008_041002.htm
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%86%85%E6%B0%8F



百済伝説に関係するのはPDFにもある次の2カ所です。

日記●P189 寛政4年閏2月12日 宮崎比木村
(「師走祭調査報告書」P121からコピペ)
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十二日、快晴、椎ノ木村酒店より戊の方十丁斗道中嶋村を過ぎ比木村に
入る。石鳥居社南向き比木大明神百済国福智王子を祀る。百済より此所
へ隠れまし墓も有り社領七十五石社家四十三入社僧長照寺真言宗も義也。
森は杉桧の大木多くし楠の大木も亦多し、一の鳥居のあたり楠根の張り
たる所六間余なる有り、これより南半町斗り福智王の墓有り、五輪塔壱
尺七、八寸の丸石也、古からず。比木昔は火木と書きけるに火事多かり
けるによりて比木に改むると云ふ。別当持の社也、社後高城川流る、中
嶋村より社前迄松並木五丁斗り続く、松虫せみの声にて鳴く、高鍋城主
秋月佐渡守殿参勤交代共に参詣有る。福智王の父は延岡城下より西六七
里きじのみかどに祀りて有り、毎年、鉾と太刀ときじのみかどへ渡りて
中酉の日祭りありて帰らる。父へ省するの意なるよし、九月中の日、高
鍋城下宮田大明神へ神輿入りて村々を廻りて帰社、是をお里廻りと号す、
十一月初めの申の日鴫野大年大明神へ神輿入る、宮田は姉神、大年は母
神也……以下略

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自分流に要約すると………
百済が滅んだ時、王族が家族そろって倭国に亡命し、宮崎の海岸にたどり着き、王と王子は神門神社と比木神社に別れて暮らした。師走祭りは王子が父王を見舞う行事だとあります。ではなぜ王子の母と姉は行事に参加しないのでしょう。
不自然で“とってつけたような”無理を感じます。






日記●P197 寛政4年閏2月19日 宮崎神門
(「師走祭調査報告書」P121~122からコピペ)
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十九日、雨降る。五郎兵工斗酌みて立つ、西の方半里神門に至る。神門
大明神拝殿宮殿巳午の間に向ふ、杉の大木多し、十二宮大明神とも称す。
極月申酉の日祭礼、比木大明神の親神にて比木の神卯の日に発駕、美々
津通行未の日に麦に神体鉾渡らせ給ふ。百済王とも言ひ、また、頼朝伊
藤の館にて預けられし子也とも称す。田の原に於て猪肉を料理して有け
る時に敵に追われて金ンのまな箸まな板を渕に沈めてここに逃げ
霧の印を結びたるによりて敵も知ること能わず、これによりて今に此辺
霧毎朝下る、雨天の日は霧かからず其の渕今に黄色の水有りて油田と渕
の名を称す。神門に入りて米かみと称する所有り、神の落ち玉ひける時
に飢えて米かみ玉ひし地と称す。百済国瓶持ち来られけるが田代にて破
れたり、因て、其所をかめわり坂と称す。其後此方にて新たに瓶を作ら
れて、今社前田の中に覆ひして納む、田は艮里、延岡は北十五里神の長
男どん太郎といへる有り、申酉両日の祭の内酉の日はどん太郎の祭りと
いふ。神の着玉ひし鎧とて今に有り、日本国の具足の破れ残りたるのよ
し、此所人家百軒斗り坪屋より西四里所也、庄屋民右工門所へ入りて尋
ねける神は養老年中の勧請の伝にて棟札文明七年なる有りとぞ、渡川は
坤三里それより米良の小川へ五里といふ、是れ、米良主膳殿江戸参府の
道也、山下の内あらしこといへる所にても比木大明神祭礼有り、神の御
子生まれせし所と云ふ神門社後森の内、いちいの大木あり是どん太郎の
墓也といふ。社前田地の内に二尺斗の瓶二あり、一は百済より伝えし物、
一は此方にて作りたる物也と云ふ。……以下略

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読解力がないので不安ですが「神門神社の神は百済王ともいうけれど頼朝の子ともいわれている」と書いてあるのでしょうか。
確かに頼朝は伊藤祐親の三女と恋愛事件を起こしています。
http://gameguri.fc2web.com/gameguri/yositune/BYyoritomo.htm

益見太郎塚については神門神社の奥の院ではないかと前回書きました。日記を改めて読むと
「神の長男どん太郎は、此木神社で生まれ、神門神社の奥に墓がある。鎧も残る。」と解釈してよいのでしょうか。
であるならば、中世から続く師走祭りは冬至祭りに地域の英雄の生誕の地から終焉の地までを辿る慰霊祭が加わったものとも考えられます。
英雄が生まれた此木神社近くに母神を祀る大年神社や姉神を祀る宮田神社があるのも頷けます。

2月12日の日記にある百済伝説の“とってつけたような”話よりずっと現実味があります。

百済の瓶については百済伝説のあちこちで読みましたがこれも高山彦九郎の日記が出所だと理解しました。





PDF第1章では高山彦九郎の日記以外にも原典を引用しています。
原典を引用している全てを検討します。

P10 前記の 「神社境内書上帳」 の中御祭毎年の次第には
「十二月中ノ申酉両日祭祀、是ハ先規ヨリ 同国高鍋領比木大明神ノ社人
中、彼比木大明神奉守護、中ノ末ノ日神門村江着、神門村社人立合祭祀
相勤、戊ノ日神門付出立帰祓申候幸二御座候」
とみえ、この時期の比木大明神の御神幸の日程を知りうる

    ↓ ↓ ↓
百済王については一言もありません。




P10 嘉永六年六月、黒木重政が刷った「日向襲高千穂神代囲」には次のよ
うにみえる。
「神門大明神」「神門神ノ祭礼ハ、毎年十二月次ノ酉ノ日ヲ定日トス、比
日児湯郡高ナべ比木村ヨリ比木大明神行幸アリ、神事ヲワリテ宝壷ノイ
子ヲ比木大明神こサ、ケ奉ル古例ナリ」「宝壷口ひろさ一尺二寸、高二尺、
此器神代ヨリ年々御田ノ稲ボヲ入テ宝蔵ニヲ

    ↓ ↓ ↓
百済王については一言もありません。



P10 山陰神社における祭礼について享和二年(一八〇二)正月 仮題「利
国大明神書上」 (都甲家文書) に次のようにみえる。
「十二月巳ノ日
但高鍋領比木大明神、年二壱度神門村へ御通行之節、利囲二御立寄、
末社伊坂大明神御殿之上二御腰ヲ掛ケ被成、神酒 御共三膳御菜ソギ大
根小餅九ツ積備中候テ、御共之社人 利国神前二神楽三番之処ハ速々相
成候故壱番ニテ成就仕候、其節之御祭リハ比木社人 ハ利国神前二祝詞
上神候、此方 比木大明神二御祭棒申候、右相済候テ其晩羽坂門へ御泊
り被成候」

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百済王については一言もありません。



P10 ・弘化二年(一八四五)、延岡藩の薬草学者・賀来飛霞の「高千穂採薬記」
によると、「神社アリ。鳥居三四ツモアリ。宮殿モ壮麗ナリ。社僧モア
リ、神ノ林モ広大也。相伝フ、此神元卜漢土ノ帝王ノ彼国ノ乱ヲ避テ
来り玉ヒシト。又高鍋領内二此神ノ御子タル神ノ在ストテ、十二月祭
祀ノトキ、彼領ヨリ神輿ニテ此地二行幸アリテ、遠近ノ村々ヨリ群集
シ、歳の晩ノ売物ヲ出シ……」

↓ ↓ ↓
高山彦九郎が日記を書いたのは寛政4年(1792年)ですから、50年以上後の記録です。
百済ではなく「漢土ノ帝王」となっていること、同一神の生誕と崩御ではなく父子伝説になっていることは興味深いです。


以上が第1章で原典を引用している全てです。






04 第2章 師走祭りの内容の実態と現状
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第2章には師走祭りの内容が詳しく書かれています。
「どん太郎」ゆかりの地を巡る祭りであるのが本来の姿なのだと思えます。






05 第3章 特別寄稿
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天野武氏の「日向の師走祭と伝説」は、第1節から第3節までは祭祀の実態を民俗学の立場から解説していて興味深いです。
百済伝説について書いているところを引用します。


P56~ 第4節 師走祭にまつわる百済王伝説
 師走祭りに関わる百済王伝説は、私の調査の限りで
は細部において完全な一致を見ておらず、やや違った
ものが並存し錯綜しているというのが現状のようであ
る。ただし、それら伝統は、明治時代以降に作為的に
流布され定着をみたものではなく、控え目でも、江戸
時代末期(一九世紀半ば) には、すでにある程度の広
がりをもって民間に伝えられていたと判断できるので
ある。そのことは、『高千穂採薬記』 (前掲) および
高山彦九郎の『筑紫日記』 (寛政四年閏二月) 〔一七九
二〕の該当する条や比木神社旧縁起の記録によって疑
う余地はない。

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ほぼ同意見です。『高千穂採薬記』 と『筑紫日記』 についてはすでに書きました。
比木神社旧縁起については後述しますが、資料がありません。


P58 結びにかえて
 前段までに、南郷村の神門神社と木城町の比木神社
に関わる日向の師走祭りにつき述べた。その民俗的諸
要素と伝説の二面に留意したつもりである。それにも
拘らず、伝説は史実とは一線を画するものであるから、
師走祭りは難をのがれた百済王一行が日向のこの地に
漂着したことの託とはいえないのである。よって、日
向の師走祭りが百済王一行の漂着とその後の定着に不
可分の関係にあるとする論証は今後に残された課題な
のである。

↓ ↓ ↓
「伝説は史実とは一線を画するもの」に同意します。


P59 ・・・何故にかくも数多くの鉾が
いかなる目的で奉納されてきたのか、などが民俗学的に証明できれば、
控え目でも師走祭りは一五世紀前半(中世)まで遡れることは確実視で
きよう。

↓ ↓ ↓
「どん太郎」が頼朝の子だといわれるほど歴史があるのですから、15世紀までさかのぼれるのは納得できる話です。





五任東棟氏の「『師走祭り』 の現地調査」の記述には多くの間違いがあります。
その一部を示します。

P60 南郷村に伝わる 「百済の伝説」は文献記録にはないが現地に伝承され
ている話でこれらを立証する神門神社や所蔵されている銅鏡、馬鐸、馬
鈴などは百済王族がもっていた遺物といわれている。禎嘉王が実在した
の人物とすれば百済が亡びた西紀六六〇年頃のことで今より千三百数十
年も前のことであるが当時の遺物が損傷もなく今日まで保存され

↓ ↓ ↓
報告書第4章第5節(P137~170)にあるように
「銅鏡」33面は最古(四世紀末から五世紀)の半円方形帯神獣鏡も国産鏡で14世紀以降の鏡も多いです。
「馬鐸」は六世紀後半の国産です。






06 第4章 師走祭り関係史資料集 
    第1節 祭りの位置づけと神楽

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P74 師走祭(百済王族親子対面の祭)
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06_第4章(第1節).pdf のP73~82で百済と書かれているのはこの一カ所のみです。
貞義帝の名も福智王の名もありません。






07 第4章 師走祭り関係史資料集 
    第2節 文献に見る神門神社と比木神社の師走祭り

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P84~89  1 延享四年内藤家文書「神社境内書上帳」
        ↓ ↓ ↓
百済との関係を示すものはありません。



P90~91  2 藩政時代の祭の記録(郷社神門神社調書)
        ↓ ↓ ↓
最後の2行に
神が神を祭るということも珍しいことであるが、この祭礼は社伝にある
貞義帝と福智王との経路を伝えるものとして重要な行事である。


とありますが、郷社神門神社調書のどこにも百済を連想するものはありません。

また※印をつけて以下の2行を囲んで
※「祭神伯知王は御名を禎嘉帝と申し奉る」と祭神御事歴附記にあ
 ることから伯知王と帝嘉帝は同一人物である。


とありますが、本文に※印に相当するところがなく、意味不明です。



P92~107  3 神門神社の恒例祭神事録 明治四〇年(一九〇七)
         ↓ ↓ ↓
祭りの当番や寄進した方の名前が日付とともに詳しく書かれていて興味深いですが、百済との関係はありません。
特に海野栄太郎氏の「御渡行由緒記」(P103~107)は明治39年の神社法令を受けてから大正8年に日付が復旧した経緯や祭りの詳細が書かれていますが、ここにも百済との関係を示すものはありません。



P108~116  4 日向国神砥資料に見る神門 比木神社の御神幸 (都農一の宮神社資料)
          ↓ ↓ ↓
頑張って読んでみましたが、百済との関係を示すものはありませんでした。






08 第4章 師走祭り関係史資料集 
    第3節 伝説や祭等を伝える文書

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P118~120  1 日州児湯郡高鍋比木大明神縁起 宝暦五年(一七五五)
          ↓ ↓ ↓
1755年にペンが普及していたのでしょうか。
古文書は筆文字とペン文字が混在し、百済と関係ある部分は全てペン文字となっています。



P121  2 比木大明神系図

 比木大明神系図は児湯郡高鍋町中鶴村百姓五郎兵衛所持のものを、明
治二年十月、永友司が書写したものの再掲である。

 百済国王神門帝家二御王子福智王奉申、百済国正光元年辛巳福智王吾
朝渡給三体三恭日本年号弘安四年辛巳安芸国着岸自是又鎮西日向国児湯
郡之内級鉱添仁爽着任給甲胃捨御衣千絵比所級鉱ト云。…(以下略)…

    ↓ ↓ ↓
比木大明神系図とありますが、P121上段に図でも筆文字でもなく活字で書かれています。
福智王というのは古事記日本書紀はもとより三国史記にもない名前です。


P121~123  3 高山彦九郎「筑紫日記」(抄)
       4 賀来飛霞「高千穂採薬記」 (抄)

          ↓ ↓ ↓
「筑紫日記」「高千穂採薬記」については考察済みです。



P124~125  5 宮崎県日向国東臼杵郡南郷村神門神社明細帳追記
 神社明細帳追記
人皇四十六代孝謙天皇之御時百済国之帝
王貞家帝止奉申御即位治世二十一年御歳
四十有余之時

↓ ↓ ↓
P92~107に見たように神門神社の恒例祭神事録 明治四〇年にもまったく記述がないばかりか
三国史記にもない貞家帝が「即位していた」事実はありません。



P126~127  6 百済国伯知王略縁起
        ↓ ↓ ↓
P92~107に見たように神門神社の恒例祭神事録 明治四〇年にもまったく記述がないばかりか
伯知王の名は三国史記にもありません。






09 第4章 師走祭り関係史資料集 
    第4節 神社関係資料

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P128~131 1 神門神社
▽神門神社 社格 郷社
養老二年創建、神門神社大明神と称されたが、明治四年十一月他の神
社と合祀して神門神社と改称した。
正祀 大山祀命 山の神の上にあって総覧主宰し給う神なりとある。各
地の山神の総大将で大山に住み山々を統轄する山神である。
合祀した神社は次のとおりである。

    ↓ ↓ ↓
大正2年に百済国伯智王 (禎嘉王)霊神が正祀されたいきさつが書いてあるのですが、
明治4年の正祀は「大山祀命」だけでした。

神門神社が伯智王の合祀認可申請を出したのは明治45年です。

申請に対して県は「帝国の神」ではない事を理由を一旦は退けますが、
大正2年に内務省から

特別由緒アル神社ニ付テハ内務大臣ニ稟請スヘシ

との法令が出て、認められました。
神門神社はなぜ明治45年に申請したのでしょうか。

P131下段の「大正四年四月三十日 神門神社社格昇進具申書」資料が興味深いです。
写真の解像度と読解力のなさから間違いがあるかもしれませんが以下に書き出しました。

一 昇格ノ事由
本神社ノ祭神中百済国伯智王霊神奉祀して然ルニ韓国ハ
明治四十三年八月二十九日大日本帝国ニ併合セうし、既ニ我領土ノ範囲
トナリ、故ニ苟モ貞家帝王ハ君主タ●其霊ヲ氏神トシテ奉祀シアル以上ハ其
霊ニ對シ現在ノ社格ニテハ誠ニ驚愕堪エサル次第ナリ 此ヲ以テ熟々惟ルニ本
年ハ畏モ 今上陛下御即位ノ大典ヲ行を給て千歳一隅の●に當レ
ハ此期ニ於テ昇格成リセバ之ニ優ルノ記念アラザルモノト確信シ茲ニ謹
●昇格ヲ出願セシ事由ナリ
  大正四年四月三十日 右神社々司 原田梅平

↓ ↓ ↓
明治43年(1910年)に日韓併合があったので、百済の王も祀らせてくれ。というものです。
そして百済伝説の初見は寛政4年(1792年)の高山彦九郎の日記なのです。



P132~133  2 比木神社
比木さまは、明治以後、百済福智王は表向きには出られなかったが、
氏子の信仰の中心はやはり百済伝説であった。

    ↓ ↓ ↓
根拠となる資料がありません。
P56でも「比木神社旧縁起の記録によって疑う余地はない。」と書いていますが
比木神社旧縁起はP133の資料でしょうか。どこにも記述がありません。
角川書店発行の「NHK 歴史発見 15」9ページに写真がある「比木神社縁起」でしょうか。
しかしここにもそのようには書いてありません。



P134~135  3 大年神社
   人々に数々の物語を連想させる。

    ↓ ↓ ↓
百済と関係する資料がありません。



P136  4 毛比呂計神社 (跡)
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百済と関係する資料がありません。
「裳ひろげ」 の地名の由来はどん太郎さんの逸話だったのではないでしょうか。






10 第4章 師走祭り関係史資料集 
    第5節 神門神社の宝物・文化財

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P137 1 神門神社の宝物
神門神社の宝物は大別すると、銅鏡三十三面(内、十四世紀以降の
もの九面)馬鈴、馬鐸、須恵器、直刀の鉄剣、摩喉羅伽の像?綾織の
布吊墨書、板絵観音像(応永八年の作)、長祓三年奉納の記録のある鉾
一、0〇六本、慶長十二年奉納の三十六歌仙絵、宝暦五年の神社縁起、
寛文元年建立の本殿など、何世紀にもわたる文化財が存在するが、こ
のことはこの地方の文化が連綿として続いた歴史を実証するものと考
える。

    ↓ ↓ ↓
同意です。序章 P6 に書いたように神門神社は交通の要所に建てられたのですから
奉納品が豊富だったのは頷けます。

銅鏡も馬鈴、馬鐸、須恵器、直刀の鉄剣も百済と関連づける必然はありません。
板絵若色観音菩薩御正体も鉾も同様です。
PDFにも論拠となる説明はありません。

P147 この古墳は地元豪族ドンタロの墓といわれているが、高山彦九即日記
で 「ドンタロは神の御子なり」とある。

    ↓ ↓ ↓
ドンタロ塚こそが神門神社の祭神なのでしょう。




問題はP149  7、綾織布吊墨書 です。
綾織布吊墨書については次のサイトから引用します。
http://foodpia.geocities.jp/miyazaki_yamacha/cahier/history/np-nango.html

宮崎日々新聞 1996.9.11. 1面トップ
「百済王伝説」裏付け
古文書に史実記載 福宿前宮大教授が解読
南郷村・神門神社保管
同神社に保管されていた衣服に文字を隠すように縫い付けられていた。


宮崎日々新聞 1996.9.11. 26面
真実味増す王族渡来
「百済の里づくり」に弾み
伝説に史実としての確証があった証拠。


宮崎日々新聞 1996.9.13. 29面
例見ない「百済文字」
神門神社の古文書解読
王族示す綾織 640年ごろ即位布告と推定
この古文書は韓国でもほとんど例を見ない「百済文字」であり、…(中略)…書かれたのが六四〇年ごろの百済と推定、


宮崎日々新聞 1996.11.14.
伝説の根拠裏付け
前宮崎大学教授 福宿孝夫
豊璋王が形見に持参 南郷村神門神社の古文書解読
王家直系を証明


宮崎日々新聞 1996.11.21. 15面
多くの傍証史実を投影
百済王族伝説の謎を解く
南郷村でのシンポから
本格的検証へ道
日韓の学者ら高い関心
伝説で片付けるにはあまりに史実(事実)を投影している


宮崎日々新聞 1996.11.21. 14面
綾織墨書は王の形見
福宿孝夫氏 前宮崎大学教授(比較文字学)
国王の書類で人目に触れない(奪われない)ように隠しながら大切に保存されていた


宮崎日々新聞 1996.11.21. 14面
確かな受け皿が存在
金宅圭・韓国嶺南大学名誉教授(文化人類学)


宮崎日々新聞 1996.11.21. 14面
師走祭りには普遍性
井上秀雄・樟蔭女子短期大学学長(歴史学)

村民の思い、同村の試みが未来へ、そして諸外国へつながることを期待する。


しかしPDFの説明は以下です。
P137  平地経の四本縁組織と呼ばれる綾で、右上り四枚綾、卍の形を崩した
「紗綾形」や花などの模様が一緒に織り込まれている(絹織)。これらの
特徴と糸の例化状況などから鎌倉・室町期の織物の可能性が高い。
文字は赤外線カメラで撮影し可能な限り読み取っているが、意味は不
明である。

↓ ↓ ↓
鎌倉・室町期の織物であれば文字が670年頃に書かれるはずもなく、新聞社の安易に百済伝説を裏付けたとする記事には怒りを覚えます。
流布する百済伝説によれば神門に隠れ住んでいた貞嘉王は新羅の追討軍と戦い戦死して産土神となり神社が建立され宝物も保管されているのですから、綾織布吊墨書を隠すために衣服に縫い付ける理由が分かりません。

ところで福宿孝夫氏を知りませんが井上秀雄氏は著書「古代朝鮮」(講談社学術文庫 2004年)で一貫して朝鮮を持ち上げ倭を見下しています。
その井上氏でさえ綾織布吊墨書について慎重な言い回しをしてるのは、学者として肯定できるものではないからでしょう。

実際、百済語をはじめとする古代朝鮮語の資料はほとんどないのですから。
http://www.tufs.ac.jp/ts/personal/choes/bibimbab/siru/kodai.html



綾織布吊墨書については以上です。

神門神社本殿について
P155 (訓) (日川路新納院臼杵郡山陰郷の内神門村の大明神は、震丹(しん
たん) の上官明君公帝なりと伝聞す、

↓ ↓ ↓
wikipediaに『「支那」のほか、「震旦」「真丹」「振丹」「至那」「脂那」「支英」等がある。』とあるように震丹とは中国のことであり、賀来飛霞が「高千穂採薬記」で神門神社の神は「漢土ノ帝王」だと書いていたことと一致します。(P10)
1661年建立の際の棟札に百済王の記述がないのは百済伝説がなかったことの証拠でもあります。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%94%AF%E9%82%A3






11 第4章 師走祭り関係史資料集 
    第6節 伝 説

──────────────────────────────────

P171 1、百済王貞嘉帝人村の伝説
本村内大字神門字小路に鎮座される旧郷社神門神社(旧称神門大明神)
は百済王の貞嘉(貞家とも書く)王を祭る神社であるが、その縁起①によ
ると次の通りである。

    ↓ ↓ ↓
「その縁起」に①とあるので注釈を探したのですが、ありません。
原典を示さない説明は不誠実です。


P172 2、比木神社と福智王伝説
P176 3、神門の七人衆
    ↓ ↓ ↓
原典を示さない説明は不誠実です。






12 第4章 師走祭り関係史資料集 
    第7節 神門の地名「山神信仰と神門の地名」任東権

──────────────────────────────────

P179 「伊予国風土記によると御島
においての神の御名は大山積の神、
またの名は和多志 (渡海) の大神
-この神は百済の固から渡ってお
いでになった」とある。

    ↓ ↓ ↓
伊予国風土記は、江戸時代になってまとめられた逸文です。
http://inat.cool.ne.jp/Softinat/soft/WEB/ONSEN/kosen3.html
http://ww5.enjoy.ne.jp/~hajime.hunt/nihonnsaikonoyu.html




P179 「山神」の例は百済人の定住した近江の国(滋賀県)などにも多くの例を
見るが、百済の重臣鬼室集斯を祀る「鬼室神社」周辺と「神門神社」周
辺を比較すると(図-1、図-2)人々が狩猟生活の時代山神は山上に
あり、天と接見できる場所が神のいるところ、つまり山神であった。
…(中略)…
 師走祭りの時の山神遠拝、この地方では百済から渡来の山神を意識し
ていたのではないか。山神すなわち百済神1大山祇命、百済文化の定着
地という認識が必要であり、このことは師走祭りを理解する上でも大き
な役割をなすと考える。

    ↓ ↓ ↓
滋賀県の鬼室神社は鬼室集斯とは何の関係もありません。

『近江・若狭・越前 寺院神社大事典』
から
P154 鬼室神社の全文を転載します。
----------------------------------
鬼室神社 きしつじんじゃ  滋賀県日野町小野
 小野集落の東にある。明治維新の際に軻遇突智(カグツチ)命を祭神として祀り、西宮神社と号し、昭和三〇年(一九五五)に現社名に改めているが、江戸時代までは不動明王を安置する不動堂であった。社名の由来は本殿裏の石祠に高さ四八・五センチの八角形の宝珠状柱石が祀られ、これが百済からの渡来人鬼室集斯の墓であると文化三年(一八〇六)に西生懐忠らが発表したことによる。集斯は六六〇年の百済滅亡後、倭国の援助を得て、その復興運動の中心となった鬼室福信(義慈王の父武王の従子)の親族と見られ、「日本書紀」天智天皇八年(六六九)是歳条には「佐平余自信・佐平鬼室集斯等、男女七百余人を以て、近江国の蒲生郡に遷し居く」とあり、これより先、天智天皇四年二月是月条にも、「百済の百姓男女四百人を以て、近江国の神崎郡に居く」とあるところから、集斯らの遷住は蒲生・神崎両郡の百済系移民を統括する意味もあったとみられている。しかし、懐忠らの発表以前の天明八年(一七八八)当地を訪れた司馬江漢は、この宝珠状柱石を見聞、写生図を残し、柱石には銘文がないことを図に添書している。現在柱石には「鬼室集斯之墓」と陰刻されているが、「日野町志」も懐忠らによる偽作説をとっている。
 江漢の「江漢西遊日記」には「人魚塚は八角にして、文字見へず、高さ一尺一二寸、下の台石横一尺三寸位、亦四角の塚は救世ぼさつのつかと云、人魚は蒲生川よりあかる」と記され、当時は人魚を葬った人魚塚と考えられていたようである。人魚塚の伝承は「日本書紀」推古天皇二七年四月四日条の「近江国言さく、蒲生河に物有り、其の形人の如し」、あるいは「聖徳太子伝暦」の「近江国司便啓曰、蒲生河有物、其形如人非人、如魚非魚」より派生したもの。

----------------------------------


『近江日野の歴史』第1巻 自然・古代編 2005
鬼室神社について財団法人滋賀県文化財保護協会へ問い合わせた際、紹介していただいた書籍です。
この本でも集斯の墓碑については江戸時代の偽作と認めています。
本居宣長と同じく医師でもあり国学者でもあった西生懐忠が近江日野の小野に伝承地を定め、彼が偽作した碑文と推定するものである。(P435)



新日野新聞社創刊四〇執念記念誌
日韓友好親善のための 鬼室集斯小伝(瀬川欣一著)
日野町観光協会から送っていただいた小冊子には以下のようにありました。
肝心なのは二百年に及んだ鬼室神社への信仰であって、その墓石の真偽ではありません。(P48)


「鬼室集斯之墓」と陰刻されたのは1788年以降ですから、高山彦九郎が日記を書いた寛政4年(1792年)と近い可能性が高いことは興味深いです。


以上でPDF「日向南郷神門神社・木城比木神社の師走祭調査報告書」の検証を終わります。


百済伝説の検証.doc


- - - - -
xxxxxx
〒xxx-xxxx xxxxxxxxxxxxxxxxxx
xx-xxxx-xxxx
xxxxx@xxxxxxx.ne.jp


(リンク切れしているサイトがひとつありましたが送ったまま転載しました)

.
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[C66]

たぶん、こんな感じ。

一 昇格ノ事由
本神社ノ祭神中百済国伯智王霊神奉祀シアリ、然ルニ韓国ハ
明治四十三年八月二十九日大日本帝国ニ併合セラレ、既ニ我領土ノ範囲
トナリ、故ニ苟モ貞家帝王ハ君主タリ其霊ヲ氏神トシテ奉祀シアル以上ハ其
霊ニ対シ現在ノ社格ニテハ誠ニ恐懼ニ堪エサル次第ナリ、仍テ以テ熟々(つくづく)惟ルニ本
年ハ畏モ、今上陛下御即位ノ大典ヲ行ヒ給フ千歳一遇ノ秋(とき)に當レ
ハ此期ニ於テ昇格成リセバ之ニ優ルノ記念アラザルモノト確信シ茲ニ謹
テ昇格ヲ出願セシ事由ナリ
  • 2015-01-21 21:54
  • hyperhamster
  • URL
  • 編集

[C67]

笠原道純著『旧聞録』(日向旧跡見聞録)によると、大国主(大巳貴命)が国譲りをしたあとに
隠棲したところであるという。
成立年代は分からなかったが、元禄九年(1696)以前である。

元禄九丙子中秋??(1696)
日向国五郡八院旧元集曰
比木方/百町大巳貴尊/比木大明神霊地也
同 笠原道純著旧聞録曰
比貴大明神比木村所、祭之神ハ大巳貴命也云々、
伝ニ云、此神ハ異国ノ大将軍ナリシカ云也、此処ヘ逃来給フト
今按スルニ、日本紀神代ノ巻ニ、高皇産霊命経津主ノ神、武甕槌神ヲ遣シ
(以下、印刷不鮮明であるが、国譲りの神話を記述)
実ニ本朝地主之神ニテ在ス、大将軍ナレトモ天神勅命ニ順ヒ引退隠居
為給フサマサナカラ合戦ニ打負テ引退ニ相似タルモノカ異国大将軍敗北
シテ云々ト云ル俗説此由緒ヲ誤リ伝ヘシナルヘシ
  • 2015-01-21 23:27
  • hyperhamster
  • URL
  • 編集

[C69]

調査報告書が「読者の判断にゆだねる」として縁起の写真を載せているのは、(紙・墨・用字による)年代鑑定、そして著者が加賀美光章かどうかの筆跡鑑定(『神門神社縁起』『比木大明神縁起』も当然比較する)を避けたものとも考えられます。
残念ながら、鑑定能力は自分には無いんですよね。

不審点はあります。
・調査報告書に『神門神社縁起』が載せられていない。益見太郎が登場するのはこっちなのに。
・『神門神社縁起』と『比木大明神縁起』は同じ「比木祠旧記」を参照しているはずなのに、少なからぬ差異が認められる。

でも、偽書であってもこう強弁するでしょう。
「偽書が生まれたのは、百済とのつながりがあったからである。それで充分である」と。
鬼室神社と同じです。

[C70]

「百済伝説」は不審点だらけです。
P118~120の「比木大明神縁起 宝暦五年(一七五五)」は筆文字とペン文字が混在し、百済と関係ある部分は全てペン文字となっています。

私に能力と根性があれば別のアプローチも出来るのですが。
たとえば「師走祭り」で練り歩く90キロの道程の一行が宿泊もする地域に百済伝説の痕跡がないこと、です。


>鬼室神社と同じです。

同感です。お互いにお互いを論拠にしている現状です。
特に地元の方には捏造を払拭するよう頑張ってもらいたいです。
大変だとは思いますが。
  • 2015-01-29 01:20
  • ざる
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