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【百済伝説11】尊王志士 高山彦九郎_3

続けて『高山彦九郎日記』から百済伝説に関係するところを引用します。

寛政4年閏2月12日 宮崎比木村
十二日、快晴、椎ノ木村酒店より戊の方十丁斗道中嶋村を過ぎ比木村に
入る。石鳥居社南向き比木大明神百済国福智王子を祀る。百済より此所
へ隠れまし墓も有り
社領七十五石社家四十三入社僧長照寺真言宗も義也。
森は杉桧の大木多くし楠の大木も亦多し、一の鳥居のあたり楠根の張り
たる所六間余なる有り、これより南半町斗り福智王の墓有り、五輪塔壱
尺七、八寸の丸石也、古からず。比木昔は火木と書きけるに火事多かり
けるによりて比木に改むると云ふ。別当持の社也、社後高城川流る、中
嶋村より社前迄松並木五丁斗り続く、松虫せみの声にて鳴く、高鍋城主
秋月佐渡守殿参勤交代共に参詣有る。福智王の父は延岡城下より西六七
里きじのみかどに祀りて有り
毎年、鉾と太刀ときじのみかどへ渡りて
中酉の日祭りありて帰らる。父へ省するの意なるよし、九月中の日、高
鍋城下宮田大明神へ神輿入りて村々を廻りて帰社、是をお里廻りと号す

十一月初めの申の日鴫野大年大明神へ神輿入る、宮田は姉神、大年は母
神也
……以下略
(役所の「師走祭調査報告書」P121からコピペ)


日記を我流で要約すると………

比木神社の祭神は百済国福智王であり福智王の墓もある。
福智王の父は比木神社の西67里(約268km)にある神門神社の祭神である。
毎年、比木神社から神門神社に渡る祭り(師走祭り)がある。
比木神社の近くには福智王の姉と母を祀る日鴫野大年大明神がある。

参考)
http://www.pmiyazaki.com/fes/siwasu/">師走祭り http://www.pmiyazaki.com/fes/siwasu/
http://www.pmiyazaki.com/etc/hiki_j/">比木神社 http://www.pmiyazaki.com/etc/hiki_j/
http://www.pmiyazaki.com/nangou_ku/mikado_j/">神門神社 http://www.pmiyazaki.com/nangou_ku/mikado_j/




寛政4年閏2月19日 宮崎神門
十九日、雨降る。五郎兵工斗酌みて立つ、西の方半里神門に至る。神門
大明神
拝殿宮殿巳午の間に向ふ、杉の大木多し、十二宮大明神とも称す。
極月申酉の日祭礼、比木大明神の親神にて比木の神卯の日に発駕、美々
津通行未の日に麦に神体鉾渡らせ給ふ。百済王とも言ひ、また、
頼朝伊
藤の館にて預けられし子也とも称す
。田の原に於て猪肉を料理して有け
る時に敵に追われて金ンのまな箸まな板を渕に沈めてここに逃げ
霧の印を結びたるによりて敵も知ること能わず、これによりて今に此辺
霧毎朝下る、雨天の日は霧かからず其の渕今に黄色の水有りて油田と渕
の名を称す。神門に入りて米かみと称する所有り、神の落ち玉ひける時
に飢えて米かみ玉ひし地と称す。百済国瓶持ち来られけるが田代にて破
れたり、因て、其所をかめわり坂と称す。其後此方にて新たに瓶を作ら
れて、今社前田の中に覆ひして納む、田は艮里、延岡は北十五里神の長
男どん太郎
といへる有り、申酉両日の祭の内酉の日はどん太郎の祭りと
いふ。
神の着玉ひし鎧とて今に有り、日本国の具足の破れ残りたるのよ
し、此所人家百軒斗り坪屋より西四里所也、庄屋民右工門所へ入りて尋
ねける神は養老年中の勧請の伝にて棟札文明七年なる有りとぞ、渡川は
坤三里それより米良の小川へ五里といふ、是れ、米良主膳殿江戸参府の
道也、山下の内あらしこといへる所にても比木大明神祭礼有り、神の御
子生まれせし所と云ふ神門社後森の内、いちいの大木あり是どん太郎の
墓也といふ。
社前田地の内に二尺斗の瓶二あり、一は百済より伝えし物
一は此方にて作りたる物也と云ふ。……以下略

(役所の「師走祭調査報告書」P121〜122からコピペ)


こちらは百済伝説に都合の悪いことが書いてあります。
「神門神社の神は百済王ともいうけれど頼朝の子ともいわれている」というのです。

実際、頼朝は伊藤祐親の三女と恋愛事件を起こしています。
http://gameguri.fc2web.com/gameguri/yositune/BYyoritomo.htm

日記によるとドンタロさん(益見太郎)は神の長男であり源頼朝の子ともいわれている。
そしてドンタロさんは比木で生まれ、神門神社に墓があるというのです。


「師走祭調査報告書」の地図で益見太郎塚が神門神社奥の高い位置にあるのを知りました。
神門神社周辺地図+
「師走祭調査報告書」P13


益見太郎塚が神門神社の奥の院であるならば、ドンタロさんこそが神門神社の御祭神にふさわしいです。

しかし益見太郎塚のタテカンにはドンタロさんは「地元の有力者」とあり、一般には神門神社の御祭神は百済王ということになっています。

寛政4年閏2月12日と19日の高山彦九郎日記を元に百済伝説が生まれました。

ひむか神話街道 50の物語集
第34話 南郷村の百済王
(宮崎県地域振興課)
http://www.pref.miyazaki.lg.jp/contents/org/chiiki/chiiki/h-mythroad_story/densetsu/34.html
海(うみ)を渡(わた)ってきた百済(くだら)の王様(おうさま)
 今から千三百年ほど前、朝鮮半島にあった百済(くだら)という国がほろぼされ、王の禎嘉王(ていかおう)は、長男の福智王(ふくちおう)、次男の華智王(かちおう)とともに日本に逃げてきました。
 王の乗った船は最初、安芸(あき)の国(今の広島県)に着きましたが、禎嘉王は新たな生活の地を求めてふたたび船で九州を目ざしました。
 しかし、途中、はげしい嵐におそわれ、禎嘉王と華智王を乗せた船は日向の金ヶ浜(かねがはま)に、福智王を乗せた船は高鍋の蚊口浦(かぐちうら)に流されてしまいました。
 「さて、これからどこに向かえばよいものか」
 禎嘉王と福智王は、それぞれ、これからの行き先を占ってみました。すると禎嘉王は「ここから七十八里の山中(今の南郷村の神門(みかど))」とでました。また、福智王は投げた球が「木城の比木(ひき)」まで飛んだので、二人ははなればなれのまま、そこに移り住むことにしました。
 しばらくの間、静かで平和な日々が続きました。
 しかし、禎嘉王の居場所(いばしょ)をつきとめた敵の軍が本国から押し寄せたため、これを迎(むか)えうった禎嘉王の軍と東郷の伊佐賀(いさが)ではげしい戦いがくり広げられました。
 禎嘉王には土地の豪族も味方についていましたが、なにぶん、兵は少人数です。多くの兵が命を落とし、敗戦が決定的だったそのときです。福智王が軍をひきいて駆(か)けつけ、敵をことごとく倒(たお)してしまいました。
 しかし、この戦いで、華智王は戦死し、その後、禎嘉王も戦いのさなかの流れ矢の傷がもとで死んでしまいました。
 村人たちは、百済の王の一族の死を悲しみ、禎嘉王は神門に、華智王は伊佐賀に、また、のちに比木で亡くなった福智王はその地に、それぞれ異国の神としてまつったということです。



百済伝説はおかしな話です。
まず百済が滅んで王族が家族そろって倭国に亡命したけれど古事記日本書紀にも三国史記にも記録がない。
亡命した王族が家族そろって宮崎の海岸までたどり着いたのに占いによって父王だけ神門神社に住んだ。
師走祭り(比木神社の王子が神門神社の父王に会いに行くセレモニー)に母と姉が参加していない。今も神として祀られている母と姉が無視されている。

しかし師走祭りがドンタロさんの生地から終焉の地を辿る祭りだったら、ドンタロさんの姉や母の墓が生地近くにあるのも納得できます。




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