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【百済伝説10】尊王志士 高山彦九郎_2

『高山彦九郎日記』(千々和實・萩原進編 西北出版 1978)の「筑紫日記」を読むと妙な記述が目につきます。

寛政4年1月6日 …高本氏へ帰る壱里に遠し、道西の中腹松見ゆ 阿蘇大宮司の昔 十二歳なるが太閤への讒人の為めに切腹し所に埋葬し墓の木なるよし李綸が語りける(P136)

前日5日の日記に「高木父子案内」とありますから李綸は高本紫溟の息子と思われます。
12歳の阿蘇惟光が切腹したのは時代と状況を考えれば仕方ないことであり、ことさら「讒人」というのはいかがなものかと感じます。

寛政4年2月26日 …小野村といふ有り 太閤秀吉薩摩攻の時に近習の士を殺したりとして一村悉く死刑に行はれしとなん(P171)

秀吉が阿蘇の村を皆殺し…検索してもそんな事実は出てきません。

寛政4年2月27日 
上宮山を三室山共称す、廟を百済国淋聖太子の廟共いふ何レ詳かならず、(P173)

高山彦九郎も詳かではないと書いている通り、琳聖太子は実在が認められていません
http://kyushu.yomiuri.co.jp/magazine/rekishikou/008/re_008_041002.htm
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E5%86%85%E6%B0%8F



これはどうしたことでしょう。


高山彦九郎記念館のサイトから引用します。
朝威を背負い準国賓として遇せられ50日余にわたる高本紫溟や富田大鳳を始めとする熊本人士との猛烈な交遊ののち、入薩の壮途につき南下するが、まず人吉から東行し、九州山脈を横断、日向深山の米良に入り、さらに東海岸の高鍋・美々津、再び引き返して市房山に登り、西海岸の佐敷に出るという神出鬼没の足跡を印している。秘密の国薩摩の入口野間の関で止められ、半月後ついに入国、鹿児島藩では藩主以下異常な関心を沸騰させ、藩士はもちろん朝鮮人子孫・琉球人との間にさえ激甚な交友の日を送ること50日余、その間、日本最南端の海開(開聞)岳・坊津へも一巡して琉球を望見する。やがて、霧島山頂・都城・飫肥・宮崎・佐土原を経て高鍋に至る。
http://www5.wind.ne.jp/hikokuro/nikkiitiran.htm">高山彦九郎記念館「高山彦九郎日記一覧表」No.39 筑紫日記
http://www5.wind.ne.jp/hikokuro/nikkiitiran.htm

日記を読むと熊本滞在の50余日のほとんどを高本紫溟宅に滞在し何度も「深更迄語る」と記しています。
そして高本氏は朝鮮からの帰化人でした。

日記P136の欄外に高本氏の注があります。
高本氏─紫溟の事、名は順、字は子友、通称慶蔵、孤山の後時習館教授となる。熊本皇典学の祖、先祖は豊臣秀吉朝鮮の役に日本に帰化した太守李宗閑の子孫故に李順と記す、文化十、十二、歿年七十六、


ネット上にもありました。
高本紫溟 名は順 字は子友という。細川候につかえて二百石、代々医を業とし、先祖は朝鮮王の庶族で李姓であった。世をいとい宮地古神の山中に庵を結び、萬松蘆という。…(以下略)
http://www.geocities.jp/sinwanosato/new_page_113.htm



高山彦九郎は国を憂う志士です。
その高山彦九郎が史実に無い罪を秀吉に被せ、百済伝説を書き残しました。
今、百済伝説の最大の拠り所が高山彦九郎の日記です。

高山彦九郎も南郷村の方も百済伝説を信じているからこそだと思うと残念でなりません。




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