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【百済伝説09】尊王志士 高山彦九郎_1

「日向南郷神門神社・木城比木神社の師走祭調査報告書」に目を通して分かったのは百済伝説の最大の根拠が高山彦九郎の日記にあることです。

>…寛政四年に
比木から神門を訪れた儒家高山彦九郎(一七四七〜九三) は、「福智王
父は延岡城下より西六七里、きじの、みかどに祀りありて、毎年、鉾と
太刀ときじの、みかどへ渡りて中酉の日祭りありて帰らる、父へ省する
の意なるよし」「神門大明神は十二宮大明神とも称す、極月申酉の日祭礼、
比木大明神の親神にて比木の神卯の日に発駕、美々津通末の目に神体鉾
渡らせ給ふ」…(中略)…
など幅広い年代にわたり記録があることから、古い時代からこの祭りが
行われていた事がわかる。
<(報告書 P10)

最後から2行目に「など」とあるようにいくつかの史書が紹介されているのですが、百済伝説に関するのは高山彦九郎の日記だけであり、他は神門神社の祭りについて書いてあるだけです。


高山彦九郎とはどういう人なのでしょうか。

高山彦九郎(1747〜1793年)については知らなかったのですが、尊王の志士でした。
13歳の時に「太平記」を読んだことをきっかけに勤皇の志を持ち、18歳の時に遺書を残して家を出て、各地を遊歴して勤皇論を説く。…(中略)…多くの人々と交友し…(中略)…光格天皇にも拝謁した。…(中略)…1791年(寛政3年)には九州各地を旅し…(中略)…1793年(寛政5年)筑後国久留米の友人森嘉膳宅で自刃する。享年46。
多年にわたる日記を残しており、吉田松陰はじめ、幕末の志士と呼ばれる人々に多くの影響を与えた人物である。また、二宮尊徳や楠木正成と並んで戦前の修身教育で取り上げられた人物である。(@wikipedia)


尊王の志士、高山彦九郎と百済伝説の接点はどこにあるのでしょうか。

高山彦九郎が百済伝説を信じた理由を探したところ高山彦九郎記念館がありました。
http://www5.wind.ne.jp/hikokuro/index.htm

◆高山彦九郎日記一覧表
 No.39 筑紫日記
 彦九郎最後の旅。…(中略)…熊本人士との猛烈な交遊ののち、入薩の壮途につき南下するが、まず人吉から東行し、九州山脈を横断、日向深山の米良に入り、さらに東海岸の高鍋・美々津、再び引き返して市房山に登り、西海岸の佐敷に出るという神出鬼没の足跡を印している。秘密の国薩摩の入口野間の関で止められ、半月後ついに入国、鹿児島藩では藩主以下異常な関心を沸騰させ、藩士はもちろん朝鮮人子孫・琉球人との間にさえ激甚な交友の日を送ること50日余、その間、日本最南端の海開(開聞)岳・坊津へも一巡して琉球を望見する。やがて、霧島山頂・都城・飫肥・宮崎・佐土原を経て高鍋に至る。

http://www5.wind.ne.jp/hikokuro/nikkiitiran.htm

赤字で強調した通り朝鮮人子孫と激甚な交友の日を送っているのが気になります。

『高山彦九郎日記』(千々和實・萩原進編 西北出版 1978)は国会図書館にありましたので該当部分をコピーしてきました。




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