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【百済伝説08】師走祭調査報告書 序章

行政資料「日向南郷神門神社・木城比木神社の師走祭調査報告書」は180ページあります。
これを13のPDFに分割してメールで2010年8月26日に役所から送っていただきました。

最初のPDFの「編集にあたって」に以下の一文がありました。
古文書類は一部を除き原本のコピー、または原文のみを掲載し、あえて訳することをしなかった。この報告書を手にされる方々それぞれの判断に委ねたい。
 したがって、本報告書は村象をしぼらず編集したもので、願わくば、専門の研究者からアマチュアの研究者に至るまで、本地域の歴史・文化の謎解きに参加する方々へ広く活用される事を望み編集することとしたものである


この文章にあるように、報告書は大変良心的でした。
百済伝説をベースにしてはいるのですが、百済伝説に都合の悪いことも記載しています。
だから私のような部外者が「謎解きに参加」することが出来ました。


まず序章から2カ所取り上げます。

序 章 南郷村の概要

◎その1
王族の墓といわれる古墳 (塚の原古墳(県指定)も実在している。<(P4)

塚の原古墳のタテカンもネットにありました。
タテカンが載っていたサイトhttp://nanjaroka.jp/siseki/tukanohara/index.html">「塚の原古墳」をリンクさせていただきます。
http://nanjaroka.jp/siseki/tukanohara/index.html

タテカンには
百済王族禎嘉王の墓といわれる円墳で、…(中略)…前方後円墳の形をとっていた。
とあります。

前方後円墳の形をした墓は円墳ではなく前方後円墳といいます。
そして前方後円墳が築造されたのは6世紀までです。
おおむね6世紀末までに前方後円墳の築造は終了(@wikipedia)

百済が滅亡(660年)して逃げてきた王の墓なのですから7世紀後半の墓であるはずです。
そのうえ百済の進んだ文化を招来したという禎嘉王が、流行遅れの日本型前方後円墳に葬られるのはおかしな話です。


◎その2
南郷村は、その位置と地形条件から肥後の馬見原や椎葉村、諸塚村より細島港方面への出口に当たったので、江戸時代から明治・大正・昭和初期にかけて地の利をいかして近隣の村々から産物と必需品が集まり、物々交換の市がたち交易の場として栄えた
 明治三十六年、細島(日向)〜神門間の道路が近隣町村に」 先がけ開通したことにより、更に繁栄を極め最盛期には、それぞれ専門の商人や大小の企業家が入り込み大々的な取引が行われていた。
 この道路は、当時、山また山のこの地方における唯一の動脈であった。大阪と直接取引きの商人もあらわれ、三軒の遊郭が軒を並べたところもあって、山間地では珍しい市街地を形成した歴史があった。
 この繁栄と師走祭りも密接に関係しおおいに賑わったようである。ここに神門神社とかかわりの深い歴史を述べてきたが、いずれにしても古代から中世、近世 (江戸後期) にまたがる遺物や行事、記録は何を物語るのか大変興味のあることろである。
<(P6)

まことに興味深い話です。
いまは過疎の地域ですが、昔は「地方における唯一の動脈」だったのです。
神門神社の宝物は百済の王様が持って来たのではなく交通の要所にある神社だから奉納されたのでしょう。


序章でも銅鏡や綾布吊墨書について触れていますがこちらは本章で反論します。




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