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【鬼室神社03】『近江・若狭・越前 寺院神社大事典』より

滋賀県蒲生郡日野町の「西の宮」が昭和30年に「鬼室神社」と改称された理由が
滋賀県文化財保護協会と日野観光協会に聞いてもはっきりしなかったので、HPで
「鬼室集斯とは一切関係のない神社である。」と断定していた神奈備さん
http://kamnavi.jp/en/oumi/kisitu.htm
にもメールで問い合わせしました。

神奈備さんはすごいです。即答で
『近江・若狭・越前 寺院神社大事典』(平凡社)を教えてくださいました。

最寄の図書館にもある本でした。


まず『近江・若狭・越前 寺院神社大事典』から
P154 鬼室神社の全文を転載します。
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鬼室神社 きしつじんじゃ  滋賀県日野町小野
 小野集落の東にある。明治維新の際に軻遇突智(カグツチ)命を祭神として祀り、西宮神社と号し、昭和三〇年(一九五五)に現社名に改めているが、江戸時代までは不動明王を安置する不動堂であった。社名の由来は本殿裏の石祠に高さ四八・五センチの八角形の宝珠状柱石が祀られ、これが百済からの渡来人鬼室集斯の墓であると文化三年(一八〇六)に西生懐忠らが発表したことによる。集斯は六六〇年の百済滅亡後、倭国の援助を得て、その復興運動の中心となった鬼室福信(義慈王の父武王の従子)の親族と見られ、「日本書紀」天智天皇八年(六六九)是歳条には「佐平余自信・佐平鬼室集斯等、男女七百余人を以て、近江国の蒲生郡に遷し居く」とあり、これより先、天智天皇四年二月是月条にも、「百済の百姓男女四百人を以て、近江国の神崎郡に居く」とあるところから、集斯らの遷住は蒲生・神崎両郡の百済系移民を統括する意味もあったとみられている。しかし、懐忠らの発表以前の天明八年(一七八八)当地を訪れた司馬江漢は、この宝珠状柱石を見聞、写生図を残し、柱石には銘文がないことを図に添書している。現在柱石には「鬼室集斯之墓」と陰刻されているが、「日野町志」も懐忠らによる偽作説をとっている。
 江漢の「江漢西遊日記」には「人魚塚は八角にして、文字見へず、高さ一尺一二寸、下の台石横一尺三寸位、亦四角の塚は救世ぼさつのつかと云、人魚は蒲生川よりあかる」と記され、当時は人魚を葬った人魚塚と考えられていたようである。人魚塚の伝承は「日本書紀」推古天皇二七年四月四日条の「近江国言さく、蒲生河に物有り、其の形人の如し」、あるいは「聖徳太子伝暦」の「近江国司便啓曰、蒲生河有物、其形如人非人、如魚非魚」より派生したもの。

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以上。

簡潔に否定されていました。


日野町役場の方は「昭和30年に改名したのは、町村合併に伴う出来事だったのではないか」とおっしゃっていましたが、それだけでは「鬼室神社」という名前になった根拠になりません。

次は滋賀県文化財保護協会から紹介された本を国会図書館で調べた結果を書きます。



ちなみに、やはり神社サイトで有名な玄松子さん
鬼室神社を取り上げてもいません。
http://www.genbu.net/




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