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チャンパのヴィジャヤ朝

オーストロネシア語族(マレー・ポリネシア語族)のチャンパ王国にもヴィジャヤ朝があったという。

インドネシアのシュリーヴィジャヤと関係あるのかググると「ヴィジャヤ」はサンスクリットで「勝利」という意味だそうで偶然の一致なのかもしれない。とはいえ東南アジア全域がインド化していたのだなあと改めて思う。


2012年にダナンのチャム彫刻博物館で購入した「海のシルクロード チャンパ王国の遺跡と文化」(トヨタ財団発行)に興味深い記述を見つけた。(P66〜69)
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あたらしいチャンパ史  桃木 至朗

・・・6世紀中国、梁王朝の正史『梁書』は、5世紀の林邑王敵真が「国を捨てて天竺へ行った」話や、林邑にバラモンがいたことを伝える。7世紀以降・・・インドの花の名にちなんでチャンパと呼ばれる・・・

・・・10〜12世紀の中国の記録には、「蒲訶散」など蒲姓をもつチャンパの使者がよく出てくる。これはアブー・ハッサンなど、アラブ人かペルシャ人のムスリムの名前であることがわかっている。また7世紀チャンパのヴィクラーンタヴァルマン王は、カンボジアに亡命したチャンパ王子とカンボジア王女との子供だった。13世紀のジャヤ・シンハヴァルマン3世は、ジャワの王女や大越の王女を妻とした。・・・
・・・14世紀末ないし15世紀初頭、ジャワで栄えたマジャパイト王国の王がチャンパ王女(プートリ・チャンパ)をめとった。チャンパ本国では彼女の姉がアラブ人ムスリムと結婚しており、その息子が叔母の住むジャワにやってきてマジャパイト王に仕えた。・・・墓がジャワ島に残っている。・・・

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英国&越南 19〔2012.07.17〜18〕ダナン/チャム彫刻博物館〜帰国


実に面白い。ベトナム南部のオケオ遺跡からローマのコインが見つかったことは有名だけれど、扶南国に限らず東南アジア全域が活発に交流していたことをもっと知りたい。


日本も豊臣秀吉の時代から徳川政権初期には、日本の最大の貿易相手は東南アジアであり、最大の貿易相手国ではタイであったという。
お歯黒


日本も東南アジアの一員だと思うのだけれど。
記紀にペルシャ人が来日していることが書かれているし、大仏開眼供養はインド生まれのインド僧にお願いしているのだけれど、日本人が東南アジアに行った記録はあまりない。
鄭成功はハーフだし17世紀だものねえ・・・




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