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邪馬台国太宰府説の検証6

邪馬台国@Wikipedia>邪馬台国九州説

九州説の弱点6
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3世紀の紀年鏡をいかに考えるべきかという点。はやくから薮田嘉一郎や森浩一は、古墳時代は4世紀から始まるとする当時の一般的な理解にしたがって、「三角縁神獣鏡は古墳ばかりから出土しており、邪馬台国の時代である弥生時代の墳墓からは1枚も出土しない。よって、三角縁神獣鏡は邪馬台国の時代のものではなく、後のヤマト王権が邪馬台国との関係を顕示するために偽作したものだ」とする見解を表明し、その後の九州論者はほとんどこのような説明に追随している。しかし、このような説には以下のような点が問題として挙げられる。

1 三角縁神獣鏡を、呉の鏡または呉の工人の作であり、呉の地が西晋に征服された
  280年以降のものとする説もあるが、様式論からは呉の作ではない。少なくとも
  銘文にある徐州を呉の領域であるなどとはいえない。これらを280年以降の製造
  と考えると、紀年鏡に記される年号が何ゆえに三国時代の235年から244年に集
  中しているのか、整合的な理解が難しい。
2 また、九州説論者の見解では、いわゆる「卑弥呼の鏡」は後漢鏡であるとするが、
  弥生時代の北九州遺跡から集中して出土する後漢鏡は、中国での文字資料を伴う
  発掘状況により、主として1世紀に編年され、卑弥呼の時代には届かないのも難
  点のひとつである。2世紀のものは量も少ない上、畿内でもかなり出土しており、
  北九州の優位性は伺えない。

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すでに数百枚出土している三角縁神獣鏡は魏の皇帝が卑弥呼に贈った「銅鏡百枚」の決め手にはならない。


弱点6-1
三角縁神獣鏡は日本でしか出土していないし、日本でも畿内が最も多いのだから畿内で作られたと考えるのが道理。10枚程度ある紀年鏡については、縁起の良い吉祥文に年号を含んだものがあったということなのだろう。そもそも三角縁神獣鏡に三国時代の年号があっても畿内製なのだから魏の皇帝が卑弥呼に贈った銅鏡ではない。

弱点6-2
学会は畿内説に有利であれば伝世鏡などという屁理屈を言うが、九州説に有利な場合は言わない。いずれにせよ言いがかりの域を出ていない。



 ※ ※ ※ ※ ※



さて、魏の皇帝は卑弥呼に「紺地句文錦三匹、細班華罽五張、白絹五十匹、金八兩、五尺刀二口、銅鏡百枚、真珠、鉛丹各五十斤」を贈った。(『三国志魏書』倭人伝(通称:魏志倭人伝)より引用)


織物は実用品とも思えるが、鉛丹があるので全て葬具とみることもできる。


太宰府の目の前、奴国の須玖岡本遺跡(@Wikipedia)の巨石下甕棺墓に32面以上の前漢鏡が副葬されていた。奴国王の墓であろうと言われている。

P1000296s.jpg P1000297s.jpg
2006年3月撮影


奴国王が32面以上の前漢鏡を副葬していたのなら、奴国王の上に立つ邪馬台国の女王卑弥呼は百枚の銅鏡を副葬していて不思議ではない。

魏の皇帝から送られた百枚の銅鏡は宇佐神宮の亀山古墳にあると考えている。
盗掘されていなければだが。




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