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邪馬台国太宰府説の検証3

邪馬台国@Wikipedia>邪馬台国九州説

九州説の弱点3
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奴国2万余戸、投馬国5万余戸、邪馬台国7万余戸、更に狗奴国といった規模の集落が九州内に記述通りの順番に収まるとは、大月氏国が10万戸の人口40万人、また考古学では当時の日本の人口が百数十万人とされている事などから、考えにくいこと。
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当時の日本の人口が百数十万人」について。

長いこと小山修三氏が遺跡分布から推計した60万人が定説だった。
日本の人口60万人のうち、邪馬台国は7万余戸、人口35万人というのが畿内説に都合の良い数値だったからだ。
60万人は日本の西半分、畿内以西を統治していた邪馬台国に都合がいい。

しかし開発とともに遺跡の数は増える一方であり、高床住居や平地住居も認めざるを得なくなった現在、さすがに60万人説は廃れ百数十万人まで増えたようだ。
そして読み方を変える。

・対海国  千戸余
・一大国  戸数3千許
・末盧国  4千余戸
・伊都国  千余戸
・奴国   2万余戸
・不弥国  千余戸
・投馬国  5万余戸
・邪馬壹国 7万余戸

以上を邪馬台国が統率する邪馬台国連合と考え、合計15万戸75万人を畿内以西に当てると日本の総人口百数十万人は都合が良い。


しかし畿内説には都合が良くても事実は違う。

当時、中国は6000万、朝鮮半島は180万の人口だったという。
現在の人口比は中国が10倍、朝鮮半島は近代の日本統治以降激増したがそれでも南北合わせても日本の3/5だ。
過去の人口比も同じか日本の方が高い。19世紀の朝鮮半島は日本の1/4でしかない。
さらに日本の遺跡分布が中国や朝鮮半島より薄いとは聞いたことがない。

であるなら卑弥呼の時代の日本の人口は600万〜700万が相応しい。
弥生時代の人口(2)


日本の人口が600万〜700万だったら太宰府の邪馬台国に35万人というのは妥当だ。さらに南、菊地の狗奴国に20万人いてもおかしくない。
現在の首都圏の人口集中を考えれば、朝鮮半島の鉄を採って潤っていた時代の九州に80〜100万の人口を想定しても無理ではないと思う。



畿内説が600万人を受け入れた場合、畿内の邪馬台国が35万人で邪馬台国連合は200万人というのかもしれない。

しかし、考えてみてほしい。
倭人伝に「伊都国に郡使が滞在する」とある。
伊都に滞在して船で太宰府に出向くなら日帰りできるが、畿内の場合、郡使が伊都に滞在していては仕事にならないではないか。



ちなみに奴国2万余戸は太宰府の目の前の穀倉地帯であり、投馬国5万余戸は「女王国の東の海」の向こう出雲にあった倭人の国である。




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