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大和朝廷太宰府説 5

斉明天皇重祚のカラクリ。

乙巳の変の後、太宰府大和国は畿内に皇極の弟孝徳天皇と天智の妹間人皇女を派遣した。
孝徳天皇は都を難波に遷し、畿内を上手く治めた。

姪の間人皇女が本当に皇后だったか疑問だが
畿内の阿倍内麻呂の娘と蘇我倉山田石川麻呂の娘を妃とし、二人を大臣にした。


天智にクーデターを進言した鎌足は摂津から孝徳の施策に干渉した。


 * * * * *


一方、大宰府には相変わらず皇極天皇が君臨し、息子の天智が実務をこなしていた。

しかし大宰府は新羅に対して劣勢になる百済を支援するための負担が増すばかりだった。

以下、想像を加えながら・・・推論する。


皇極・天智側は百済支援の負担を畿内の孝徳に求めるがうまくいかない。

あろうことか、畿内には百済の敵である新羅が取り入るようになる。


647年 新羅の金春秋(後の武烈王)が人質となる
649年 阿倍倉梯麻呂と蘇我倉山田石川麻呂の死(二人とも大臣であり孝徳の妃の親)
    新羅の金多遂が人質となる

651年 筑紫に着いた新羅の貢調使を追い返す
653年 間人皇女、筑紫に帰る

654年 孝徳天皇崩御─→畿内での天皇不在

655年 皇極、重祚して斉明天皇即位
656年 皇極、舟で石を運んで大野城築城(狂心の渠)
    吉野宮を作る

658年 有間皇子処刑される

660年 百済滅亡
661年 斉明天皇崩御┐
663年 白村江の敗戦├→太宰府の天皇不在
667年 天智天皇即位┘

672年 太宰府で壬申の乱
673年 天武天皇東征(大和国畿内に遷都)して即位
    国史編纂の際、天皇家の系譜北九州の地名を畿内に移植


 * * * * *


何をどう書いたらいいのだろう・・・

要するに
皇極・斉明などというのは日本書紀が付けた名前であって
皇極天皇は本名「寶女王」として642年から661年まで太宰府の女王であり続けた。

「重祚」は、太宰府の大和国が畿内蘇我王国を支配するためのカラクリ、仕掛けだ。


孝徳天皇が新羅の人質を拒み、太宰府大和国の属領としての畿内運営に徹していたら
どうだっただろう・・・

ともあれ孝徳崩御の後、畿内を支配したのは摂津の鎌足だったろう。

天智天皇の妃だった鏡姫王が、鎌足の正妻となって659年に不比等を産む。
・・・どういうことよ?
【考古】蘇我馬子邸




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