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帰化人 2

前回、帰化人は朝鮮半島南部から帰ってきた倭人のことだと書いた。
しかし帰化人の中には倭人ではない人々もいただろう。

倭人でない帰化人はどのくらいいただろうか。


帰化人の一覧を書き出したサイトを見つけた。
自分で書きだした一覧よりずっと分かりやすいので引用許可をいただいた。
ただブログは1行の文字数が少ないので勝手に改行してしまった。
元データはリンクで確認していただきたい。
http://www.bell.jp/pancho/travel/saitama/yobitisiki.htm#sec 1-10">史跡巡りのための予備知識>渡来人の入植と建郡
http://www.bell.jp/pancho/travel/saitama/yobitisiki.htm#sec 1-10

●天智4年(665)
 2月、百済の民、男女400人あまりを、近江国の神崎郡に住まわせた。
●天智5年(666)
 この冬、百済の男女2000余人を東国に住まわせた。
●天智8年(669)
 この年、左平余自信(よじしん)、左平鬼室集斯(きしつしゅうし)ら
 百済の男女700余人を近江国蒲生郡に移住させた。
●天武13年(684)
 5月、帰化を望んできた百済の僧尼および俗人の男女合わせて23人を、
 武蔵国に住まわせた。
●持統元年(687)
 3月、自ら帰化してきた高句麗人56人を常陸國に、
 また新羅人14人を下野國に居(はべ)らせ、土地と食料を賜り、生活できるようにした。
 4月、自ら帰化してきた新羅の僧尼と百姓の男女22人を武蔵国に居(はべ)らせ、
 土地と食料を賜り、生活できるようにした。
●霊亀2年(716))
 5月、駿河(静岡県)、甲斐(山梨県)、相模(神奈川県)、上総・下総(千葉県)、
 常陸(茨城県)、下野(栃木県)の7カ国の高句麗遺民1、799人を武蔵国に移して
 高麗(こま)郡を置いた。
●天平宝字2年(758)
 日本に帰化した新羅の僧32人、尼2人、男19人、女21人を武蔵國に移して、
 新羅(しらぎ)郡を置いた。
●天平宝字4年(760)
 新羅人131人を武蔵の地へ移り住まわせた。

 (引用は以上)


後先逆になるが、この前段階の6世紀の記述にも注目したい。

509年 百済に使いを遣わし、任那県邑に住む百済人百姓の子孫を百済に遷す
540年 秦人・漢人の戸籍を作る
554年 百済復興のため1000人、馬100匹、船40隻送る
591年 任那復興のため2万余の軍を筑紫に送る



倭国は6世紀に任那の民を把握していたのだから倭国領民の戸籍を持っていたのは当然だ。
そしてこの時の倭国は九州太宰府にあった。


日本初の全国的な戸籍は690年の「庚午年籍」だという。
九州太宰府にあった倭国が畿内に遷都し、法整備を進めるなかで纏められた戸籍だ。

「庚午年籍」以前は日本列島にいくつもあった国がそれぞれに戸籍を作っていた。
倭国に捕られるまで畿内の王だった蘇我氏は、国記と天皇記だけでなく畿内の戸籍も持っていたはずだ。


当然、大陸や半島から来た人々は、都から遠い場所に漂着したり隠れたりした少数を除いてほぼ役所が把握していたと思う。


倭人でない帰化人の合計は、一覧によって5,219人だ。
約100年間の合計なので年平均52人になる。

案外少ない。

倭人でない帰化人は、学者がいうほど多くなかったのではないか。



さらに666年の百済遺民2,000人と716年の高句麗遺民1,799人に注目したい。
百済は660年、高句麗は668年に滅亡した。
両方とも東国に移住させられた半島遺民でありその数も近い。
50年の開きはあるが、同じ人々である可能性もあるのではないだろうか。

言い過ぎかもしれない。でも可能性はあるだろう?


「倭人でない帰化人は少なかった」と思う根拠は他にもある。




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