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帰化人 1

政治世論@もみぞう
http://momi3.momi3.net/

にあった「日教組某県作成の社会科歴史 教科書採点表1
http://momi9.momi3.net/n/src/1368205666279.jpg

時間が経つと消えてしまうので保存した。
 ↓
1368205666279.jpg

4. 渡来人
「渡来人」が農業生産・文化の発展につくした役割を正しく評価しているか。



日本書紀には「渡来」という言葉はなく「帰化」「来帰」「投下」「化来」とある。
しかし「先進国から指導者としてやってきた人々を帰化人と呼ぶのは不適切」という理由で1970年代以降「渡来人」と呼ぶようになった。
いわゆる自虐史観のひとつだ。
 資料:渡来人@Wikipedia
    帰化@Wikipedia


どこからどこへ帰化したのだろうか。

どこへは明白だ。
日本書紀に書いてあるのだから大和朝廷に帰化した。
日本書紀が完成した720年、大和朝廷は藤原京や平城京のあった奈良にあった。

どこからか。
渡来人@Wikipediaには「4世紀から7世紀頃に、中国大陸及び朝鮮半島から日本に移住した人々を指すことが多い。」とある。


その頃の半島には倭国の出先機関、任那日本府があった。
そして任那日本府のあった半島南部の前方後円墳は北部九州の様式を備えている。

であるならば倭国の都は九州太宰府にあり、北部九州の倭人が半島南部に移住していたとするのが自然だ。


任那と百済を支配していたのは太宰府の大和朝廷だ。
武寧王が筑紫の各羅嶋で生まれたのも都が大宰府にあったからだ。

新羅は三国史記にあるように王が山陰〜北陸出身であるから大和朝廷との関係は薄い。



さて。
645年、大化の改新
660年、百済が滅び、
663年、白村江の戦いで太宰府の大和朝廷が敗れ、
672年、大和朝廷の内乱・壬申の乱が起こった。




大化の改新は太宰府の大和朝廷が畿内の蘇我王家を乗っ取った事件であり
白村江の戦いは太宰府の大和朝廷が唐と戦ったのであり
壬申の乱は九州太宰府にあった大和朝廷の内乱だと考えている。

壬申の乱の後、天武天皇は畿内に遷り(神武東征)、
畿内を支配する正当性を示すため日本書紀を編纂した。


日本書紀にはそう書いてないが、隠そうとしたからではない。
天武天皇(神武天皇)の東征も壬申の乱の地名(地名の相似)も明記してある。
 →【AJER】倉山満×梅原克彦【日本書紀】
   斉明天皇は九州へ出兵したのだろうか


で、その日本書紀が「帰化人」と呼ぶのは誰のことだろう。

当然、任那や百済地域から帰ってきた倭人のことだろう。

たとえば太平洋戦争後、台湾や朝鮮にいた日本人は全員帰還した。
それと同じ事が7世紀にもあった
と考えている。


ちなみに。
帰化人に倭人でない人はどのくらいいただろうか。(次回)




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