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【倭人伝】生口は技術者(職人)

「生口」とは技術者(匠・職人)のことだと考えている。
「生口」が奴婢を意味するなら奴隷の多い中国の史書にその使用例があるはずだからだ。




>> 「生口」は、「倭人条」以外では、「ワイ条」にも見られ、邑洛間で「侵犯』が見られたときには、
>> 罰として「生口牛馬」を要求するとの記載があります。

  ↓ ↓ ↓

「生口」を奴隷とみなして「奴隷と牛や馬を要求する」と訳すのではなく、
「生口」は技術者なのだから「技術者と牛や馬を要求する」であろう。




> 特別に専門的な技術でないから、
> 「生口」という名称では?。

  ↓ ↓ ↓

卑弥呼は239年、魏の明帝へ「男生口四人、女生口六人」を送った。
人数が少ないにもかかわらず皇帝は喜び、詔書で卑弥呼に感謝し金印を下賜した。

卑弥呼は婢千人を侍らす女王であり、魏は奴隷を万単位かそれ以上持っているだろう。
そんな魏の皇帝が専門的な技術を持たない生口10人を喜ぶだろうか。

「生口」が専門的な技術を持った職人だからこそ、卑弥呼の「忠孝」を喜んだのだろう。

具体的には漆や班布などの職人だったのではないだろうか。
漆は日本が漆の先進国だからであり、班布の職人と考えるのは243年に絹布を献上しているからだ。


漆の職人であれば漆掻き、木地師、塗り師と分業が進んでいたかもしれない。
であれば、その妻も同行して人数が10人になったのかもしれない。

さらに、彼らは任期を終えたら日本に帰ってきたかもしれない。
そんなことは書いてないけれど、可能性が無いとはいえないと思う。




> 中国では日本から得る物は何もありません。敢えて言うならば日本から持っていって喜ばれるのは奴隷だけでしょう。<

  ↓ ↓ ↓

時代は違うが、殷の時代、1000人以上の殉死者にも事欠かないのが中国だ。
10人、20人の奴隷をほしがるはずがない。

そんな中国でも漆職人とか木工職人とか、手先が器用で真面目な倭の職人ならば欲しいだろう。
10人の生口と160人の生口とでは性格が違うとは思うが、しかしどちらも奴隷ではなく、技術者だっただろう。




>魏は「倭人のサンプル」が欲しかったのではないか?

  ↓ ↓ ↓

卑弥呼の前、107年に倭王は既に生口160人を後漢に送っている。
さらにその前、57年に奴国は金印を得ている。
そのような交流ある国の「人間サンプル」を欲しがるわけがない。


なぜ素直に古代日本人の技術が高かったからだと思えないのだろう。
弥生時代の日本人は今の日本人の祖先だ。

日本には自国の民を奴隷として他国に送るような歴史はない。
豊臣秀吉のバテレン追放令は日本人を奴隷として売買していたのが要因だ。





>海女のような倭の特殊な技能者だったのではないか<

  ↓ ↓ ↓

魏の国で海女が活躍出来るとは思えない。




>服属した側は奴客=家臣と区別する。
>広開土王に奴客となった残主(百済王)は
>男女1千人の生口を献上したそうだ。

  ↓ ↓ ↓

半島には高麗時代から「宦官」と「貢女」がある。
Wikipediaによると高麗時代の1273年に140名の貢女を行い、1275年には貢女確保のために国中の婚姻が禁止され、1276年には役所を設け組織的に対応しているという。
 資料 宦官@Wikipedia
    貢女@Wikipedia


一方、日本には宦官も科挙も纏足もない。



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以上、「生口」について2006年頃Yahoo!掲示板に書いたものをまとめた。
Yahoo!掲示板は3月下旬に終了して「textream」に移行するというし、当時投稿したトピックが既に落ちていたりしてリンクを貼れない。

引用はママだがYahoo!掲示板以外のものもあり、重複するところは省いたり今の持論を加えたりした。




生口@Wikipedia(以下全文引用)
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生口(せいこう)は、弥生時代の日本(当時は倭)における捕虜または奴隷とされている。
107年(後漢永初元年)に当時の倭国王帥升らが後漢の安帝へ生口160人を献じている(『後漢書』)。その後、倭王卑弥呼も239年(魏景初2年)に魏明帝へ男生口4人、女生口6人を、243年(魏正始4年)に魏少帝へ生口を献じ、その後継者の台与も248年に生口30人を魏へ献じている(『魏志倭人伝』)。
生口は元来、捕虜を意味する語であるため、捕虜を起源とする奴隷的身分であると考えられている。時代的に献上物が豊富ではなく、そのため生口を送ったと見る向きもある。ただし異論も多く、捕虜と関係ない奴隷とする説や、あえて中国へ献上されていることから、単なる捕虜・奴隷ではなく、何らかの技能を持った者とする説もある。さらに中国への留学生とする説もあった。魏志倭人伝の記述から、弥生時代後期に奴婢という奴隷階層がいたことが判っている。生口が奴婢と全く別の存在なのか、重複するのかは論が分かれている。
生口は倭国だけのものではなく、例えば高句麗の広開土王碑に、396年、百済が高句麗に大敗したため生口を高句麗へ献じたことが見える。また高麗史(高麗史 十六 世家巻第二十八 忠烈王一 忠烈王元年(1274年))によれば、文永の役(1274年)で高麗に帰還した金方慶らは、日本人の子女を捕虜とし、高麗王と妃に生口として献上している。(侍中金方慶等還師、忽敦以所俘童男女二百人献王及公主)

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