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【考古】蘇我馬子邸

http://unkar.org/r/scienceplus/1360509284">【考古】蘇我馬子邸 宮殿並み? 奈良・島庄遺跡 塀跡の大型柱穴列見つかる
http://unkar.org/r/scienceplus/1360509284
1 : 一般人φ ★ : 2013/02/11(月) 00:14:44.00 ID:???
 (長いので省略)
 引用元:http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2013020902000236.html">東京新聞 2013年2月9日 夕刊
 http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2013020902000236.html


9 : 名無しのひみつ[sage] : 2013/02/11(月) 00:56:57.26 ID:2OdxKFO6
死後改名説をなんかで読んだんことがあるが、
蔑称ってほど悪くないように思う。どうなんだろうね。


10 : 名無しのひみつ[sage] : 2013/02/11(月) 01:27:18.97 ID:HLY1Eaof
蝦夷より全然いい名前だろ


11 : 名無しのひみつ : 2013/02/11(月) 01:33:24.94 ID:87wdDNHE
聖徳太子(とされる存在)は、やはり蘇我に近い人物か蘇我そのものだな。
(トンデモ本系をたまたま読んだ、とかいうレベルで言ってるんじゃありません)



 41 : 名無しのひみつ[sage] : 2013/02/11(月) 17:10:58.84 ID:Z5s0qu79
  >>11
 同意
 小野妹子も臭いな
 としたらその3人全部同一人物ということに



  51 : 名無しのひみつ[sage] : 2013/02/11(月) 18:47:21.81 ID:8wid1gj6
  >>41
  蘇我馬子(umako)の息子は蘇我蝦夷(エミシ)
  小野妹子(imoko)の息子は小野毛人(エミシ)
  小野妹子の隋での漢字表記は「蘇因高





19 : 名無しのひみつ[sage] : 2013/02/11(月) 09:07:49.89 ID:TX1TiJ4P
大化の改新で悪役になってるけど
勝った者がご都合主義で作った歴史って可能性もあるよな





23 : 名無しのひみつ[sage] : 2013/02/11(月) 10:32:37.25 ID:FgG9ZSBL
蘇我馬子と用明大王と聖徳太子は同一人物だろうが。蘇我稲目と欽明大王は同一人物だろ。いい加減気付けよ!




24 : 名無しのひみつ[sage] : 2013/02/11(月) 10:43:29.29 ID:QTgLDR2F
そもそもなんでこんなめんどくせぇ不便な田舎に家あんの
もっと便利なところにつくりゃいいじゃん



 87 : 名無しのひみつ[sage] : 2013/02/13(水) 00:16:46.22 ID:2gbYGAEj
 >>24
 なんか考古学者って人が 昔奈良が首都だったとかぬかしてるよw あんな田舎が首都のわけねえじゃんw





35 : 名無しのひみつ : 2013/02/11(月) 16:00:35.04 ID:9VyqjdYC
蘇我高麗って祖先がいる時点で朝鮮系だよ


 36 : 名無しのひみつ[sage] : 2013/02/11(月) 16:40:08.28 ID:DMItQE74
 >35
 政治意図から祖先を嘘で関連付けるケースは多い。


  48 : 名無しのひみつ[sage] : 2013/02/11(月) 17:44:22.36 ID:Ji5Vuwa6
  >>36
  仮冒のケースね。
  日本書紀では蘇我満智の妻が韓(カラ・カヤ)出身で
  息子が蘇我韓子、孫が蘇我高麗。

  日本書紀曰く、蘇我韓子は新羅征伐を行っているので
  遠征にちなんだ名前という可能性もなくはない




40 : 名無しのひみつ[sage] : 2013/02/11(月) 17:10:40.53 ID:C6iwNweT
臣下に殺された天皇は崇峻天皇だけだよね?
飛鳥時代は戦国時代みたいに過酷なイメージだ


 46 : 名無しのひみつ[sage] : 2013/02/11(月) 17:32:40.67 ID:PQbxyPei
 >>40
 戦国時代の天皇はお金がなかっただけで……




43 : 名無しのひみつ[sage] : 2013/02/11(月) 17:25:30.31 ID:87wdDNHE
わざわざ法隆寺なんていう「テクノロジー施設」で祭るっつうか「管理」し続けた理由・・・



 59 : 名無しのひみつ : 2013/02/11(月) 21:48:19.34 ID:87wdDNHE
 悪辣藤原に記録は消されてるからこそ、法隆寺に丁寧に閉じ込められているわけで





47 : 名無しのひみつ[sage] : 2013/02/11(月) 17:37:08.98 ID:M515L6kH
大化の改新で焚書なんぞされてるし有力者どころじゃなかったのだろう
皇家だったのかもな






52 : 名無しのひみつ[sage] : 2013/02/11(月) 20:42:54.11 ID:cWOveYO5
入鹿の邸宅とは別なの?
天皇記は出てこないの?



56 : 名無しのひみつ[sage] : 2013/02/11(月) 21:36:09.09 ID:qeNtLwT0
天皇記とか出てこねーかな



 58 : 名無しのひみつ : 2013/02/11(月) 21:39:39.23 ID:2np+SpXm
 >>56
 だよなあ・・・
 そこが一番の楽しみ
 つうか、皇記と一緒に死んだのって蝦夷だったか?
 いずれにせよ、「記録」が出てほしい、柱とかどうでもいいわw





57 : 名無しのひみつ : 2013/02/11(月) 21:36:40.59 ID:dMAHY2+l
蘇我馬子って日本の曹操でしょ?


 90 : 名無しのひみつ[sage] : 2013/02/13(水) 00:22:12.75 ID:2gbYGAEj
 >>57
 蘇我馬子=董卓
 死後に捏造歴史を流布された点も含めて

 天智天皇=曹操



  93 : 名無しのひみつ[sage] : 2013/02/13(水) 00:27:34.61 ID:e8qa5Hvk
  >>90
  http://www.umoregi.com/koten/toshikaden/pdf/toshikaden.pdf
  「藤氏家伝」ですでに蘇我氏の暴政を董卓に例えているな(57行目)



   94 : 名無しのひみつ : 2013/02/13(水) 00:36:32.96 ID:2gbYGAEj
   >>93
   ガチで董卓に例えられててワロタw
   当時の人間も思うことは同じかw




72 : 名無しのひみつ[sage] : 2013/02/12(火) 18:44:23.68 ID:eyfuXduX
蘇我家こそが古来からの天皇家で、大化の改新と言われてる出来事は
クーデターによる権力簒奪の易姓革命だからな、本当は



 92 : 名無しのひみつ[sage] : 2013/02/13(水) 00:24:44.74 ID:2gbYGAEj
 >>72
 平安時代の藤原家並に 政略結婚の連発で皇室に食い込んでるからな 当時の蘇我氏




77 : 【関電 79.6 %】 : 2013/02/12(火) 21:27:07.49 ID:ZiAXFiQo
やっぱ、奈良ってこういう人達の子孫が多いの?


 78 : 名無しのひみつ : 2013/02/12(火) 21:34:51.66 ID:5ReSn3cL
 皆無だよ
 だって平安に遷都したから残ったのは坊主だけだし
 奈良の都もどこにあるか長い間分からんかったぐらいだから




84 : 名無しのひみつ : 2013/02/13(水) 00:02:53.88 ID:MAckTqqC
天皇に即位したって珍説があったけど、あながち間違いじゃなかったのかな?




118 : 名無しのひみつ[sage] : 2013/02/18(月) 19:20:33.25 ID:+6ttMjdX
蘇我蝦夷はなんで国史を焼こうとしたのかがよく分からない


 119 : 名無しのひみつ : 2013/02/18(月) 19:29:43.71 ID:ikSq+kZ8
 中大兄(天智)と中臣鎌足コンビに都合が悪いから消されて
 歴史も改竄された可能性が高い


 123 : 名無しのひみつ[sage] : 2013/02/18(月) 23:21:51.92 ID:i/CYGn2T
 >>118
 蝦夷が自殺して焼いたか、取り囲んで焼き討ちしたか、実際のところは分からんよね。
 天皇記、国記を自宅に独占してたかどうかも分からんし。
 昔は勝った側の記録しか残らないからね。


------------------------------
引用は以上

蘇我氏は大化の改新まで畿内の王だったと考えている。

どんなに古事記日本書紀が偏っていても
古代史は古事記日本書紀に頼らざるを得ない。

なんといっても645年に蘇我氏宅にあった天皇記・国記が焼失してしまったのだから。


天皇記@Wikipediaによると
国記のみが焼ける前に取り出されて残ったともいわれるが、国記も現存していない
とあるが、今ないのだからどうにもならない。



太宰府の倭(ヤマト・邪馬台)国は645年に畿内を乗っ取り、
太宰府の女王、斉明天皇は弟の孝徳天皇を畿内に派遣した。

派遣された孝徳天皇は内通者、蘇我倉山田石川麻呂の娘と結婚し難波宮を造営する。
その前に孝徳天皇には間人皇女がいた。間人皇女は天智天皇の妹だ。

本家太宰府と仲違いすると間人皇女は大宰府に帰ってしまい、孝徳は翌654年病没する。
本家に殺されたのかもしれない。

日本書紀は皇極天皇が重祚して斉明天皇になったことにしているが、太宰府で642年に擁立されてから没する661年までずっと女王として君臨し、天智が実務を仕切っていた。

孝徳亡き後の畿内は誰が治めたのだろうか?
天智は太宰府で忙しく、日向の天武は持統と結婚するまで活躍しない。
となれば畿内を治めたのは藤原鎌足に違いない。

常陸国鹿島出身の鎌足は太宰府の天智と共謀して蘇我氏を倒し、
息子の不比等には天智の落胤説がある。


・・・太宰府で狂心の渠を作り山の上に大野城を築いた斉明天皇は
唐との戦いに備えて身重の大田皇女とともに朝倉宮に避難するも661年崩御。

663年、太宰府の大和国は白村江で唐に敗戦し、急いで水城を築く。
671年、太宰府の壬申の乱の後、天武は畿内に遷る。

日本書紀は天武朝の正当性を主張するために神武東征神話を、
持統の孫に譲位するために天孫降臨神話を書いた。


細かい修正は必要だろうが概ねこうだったんじゃないだろうか。


 →九州系倭人による東日本統一
  斉明天皇は九州へ出兵したのだろうか




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[C35]

【古代史は石渡信一郎から始まる】
と信じています。ぜひ 以下の文 感想聞かせてください。。

『大和民族大移動』
*日本書紀編集者の良心の呵責を見抜いた石渡信一郎と林順治*

失礼無礼きわまりない話ですが、あなたが家系図を作成するとして、
実は、あなたのおじいさんが泥棒だったら、あなたはどうしますか?
昭和18年に隣の酒屋から酒5升盗んだ人だと正直に書けないですね。
でも、良心の呵責から、なんとかして泥棒行為を書き残したいですよね。
簡単です。じいさんに弟があり その架空人物が、盗んだ事にしましょう。
おっと、じいさんの弟はお墓が無くばれますね。では干支60年古くして
明治16年に、ひいひいひいじいさんの妹の夫が盗んだ事にしましょう。 

書紀は天皇様の見事な万世一系の家系図を書いた推理小説です。
太古から日本を統治していた事としたい。でも本当の事も書きたかった。
そのため、架空人物を多数創造した。時代も原則60年単位で古くした。
これが、真実を残すために書紀が取らざるを得なかった編集方針です。
もちろん、真実そのままの事も、どうしても書けない真実もありました。

では、架空実在人物が新旧入り混じった小説からの真実の救出法は?
 ①実在したご先祖のお墓や使用物の年代を正しく求めましょう。
 ②貴重な金石文を正確に読みましょう。
 ③地名や人名の語源を冷静に考えましょう。
この3つを追求整理したあとで 初めて日本書紀を読むべきですね。

石渡信一郎は、まず先に、上記①②③を 徹底的に、探究しました。 
①古墳や須恵器・土師器・埴輪の絶対年を正しく定めました。
 (過去の気象や磁気の変化を考古学の原則で追及した後に)
 例えば、弥生後期(5期)は260年頃から350年頃までとしている事
  及び 稲荷山古墳550年頃 で、鉄剣の辛亥年=531年
②七支刀・隅田八幡鏡・武寧王陵碑・稲荷山鉄剣を正確に解読した。
 (すみません。解読結果詳細は石渡氏と林氏の本を読んで下さい。)
③地名人名の語源を音韻変化の基本原則にのっとり追求しました。
 韓(カラ)⇒加夜(かや)・軽(かる)・茶屋(けや)・秦(はた)
大韓(カカラ)⇒大軽(おおかる)・各羅(かから)
南韓(ナムカラ)⇒難波(なには)・長柄(ながら)・中(なか)
東韓(スカラ) ⇒菅谷・早良(さわら)・日十(そか)・蘇我(そが)
大東韓(カスカラ)⇒飛鳥・春日・足柄・橿原・八幡(はちはた)
大東韓(キスカラ)⇒一須賀・石川・鬼前(きせ)・去来紗(いざさ)
大東韓(クスカラ)⇒樟葉・太秦・宇治(うじ)・太(ふつ)
昆支(コンキ)  ⇒誉田(ほむた)
  
今では信者のむらかみからむですが、石渡論の理解に半年以上です。
通説の古墳年代の根拠を知らず、通説年代は当たり前の事でした。
即ち、誉田山も大仙古墳も5世紀初頭と 無意識に思っていました。
さらに、百済皇子余昆が書紀では昆支だという事を忘却してました。

その昆支が倭の5王の武で、誉田山古墳に眠る応神でもある。
その弟が継体であり仁徳でもあり仁徳から武列までは架空である。
獲加多支鹵は欽明であり継体の子ではなく昆支の子である。
その息子がアメノタリシヒコで用明で蘇我馬子で聖徳太子でもある。
とくれば、なんでもありの飛んでも説をよくもここまでまじめに書くなあ。
石渡信一郎も林順治も トンデル人だ。と思ってしまいますよね。

しかし、音韻変化の原則から『飛鳥の語源は大東韓(かすから)だ』
の説明を熱心に 語っている文章の迫力には心を打たれました。
で、稲荷山鉄剣の辛亥年=531年で古代史を語る人は誰もいない。
の文章を読んだ時、この理論が他説を圧倒する事に気づきました。
通説の古墳年代を無意識に受け入れていた私がトンでいたのです。

なんと、小6の私の息子の社会の参考書にも書いてありましたが、
通説は稲荷山鉄剣の獲加多支鹵大王を書紀の中の雄略大王として
辛亥年=471年としてた。これを絶対基準に古墳年代を決めていた。
ワカタケルは大泊瀬幼武じゃない可能性の追求が甘いままでした。
おかしな話ですよね。書紀の記述が真実かどうか検討しているのに
書紀の記述の大泊瀬幼武の実在は真実からスタートしていたなんて。

結果的に、通説での全古墳の絶対年は60年以上古すぎたのです。
4世紀前半は弥生時代で、古墳時代はAD350年からなのです。
これは寒かった弥生後期5期が260年~340年頃でも裏付けれます。
『通説の古墳年代を 60年以上新しくして古代史を見直すべき』
との提案が石渡説の基本で他説との相違点で最重要ポイントです。
これが理解できないと石渡論はトンでる空想物語になります。

では、531年の根拠は?『完本聖徳太子はいなかった760円』より
①草冠ぬきの獲の字は 中国でも6世紀に初めて使用した。
②発掘関係隊長の斎藤忠も副葬品(銅わん等)から 531年説。
③稲荷山古墳と同年代の野々上窯の熱残留磁気測定結果。
④少し新しい江田船山古墳履が武寧王の墓の履と文様が似る。

石渡論は辛亥年=531年で須恵器や土師器や埴輪の年代を求めます。
典型例は『須恵器大成(田辺昭三)』を60年新しくしている事です。
で、全国の主要古墳年代を通説より基本的に60年新しく求めます。
さらに古鏡&刀の金石文と中国の文献で実存した人物の中から
その生存&死亡時期と照らし、各々の古墳披葬者を選び出します。
これで書紀に全く頼っていない石渡論の基本年表が完成します。

古墳------年代----被葬者
①箸墓-----385年頃-倭王旨(七支刀)   
②渋谷向山古墳-410年頃
③行燈山古墳--430年頃-倭王讃(宋書)
④五社神古墳--440年頃-倭国王珍(宋書)
⑤中ツ山古墳--450年頃-倭国王済(宋書)
⑥石津山古墳--475年頃-倭国王興(宋書)
⑦誉田山古墳--510年頃-倭王武・余昆(宋書)・日十(隅田鏡)
⑧大仙古墳---520年頃-男弟王(隅田鏡)
⑨見瀬丸山古墳-570年頃-獲加多支鹵(稲荷山鉄剣)
⑩太子西山古墳-585年頃
⑪石舞台古墳--620年頃-阿毎多利思比孤(隋書)
⑫天武陵(旧)-645年頃-ワカミタフリ(隋書)
⑬持統陵(旧)-645年頃

で、ここから初めてこの年表を書紀の記述と照らして検証していきます。
このとき、先述の音韻変化の原則から求めていた語源が役に立ちます。
コンキ⇒ホムタ や スカラ⇒ソガ や ウズ⇒フツは典型例でしょう。
こうして以下の本当の大王様の家系図の一覧表が探し出せました。

古墳---被葬年-本名-書紀の中の名前【家系図】
①箸墓---393-旨-ミマキイリヒコ【初代】
②渋谷向山-409-?-イクメイリヒコ【①の子】
③行燈山--438-讃-イニシキイリイコ【②の子】
④五社神--442-珍-ワカキニイリヒコ&ワカタラシヒコ【③の弟】
⑤中ツ山--462-済-ホムタノマワカ&尾張連草香【③の孫】
⑥石津山--477-興-カワマタナカツヒコ&凡連【⑤の子】
⑦誉田山--507-武・日十・余昆-昆支&ホムタワケ【⑤の子の婿】
⑧大仙---531-男弟-ヲホト&オホサザキ【⑤の子の婿。⑦の弟】
⑨見瀬丸山-571-ワカタケル-アメクニオシヒラキヒロニワ&蘇我稲目【⑦の子】
⑩太子西山-585-?-ヌナクラノフトタマシキ【⑨の子】
⑪石舞台--622-アメノタリシホコ-タチバナノトヨヒ&聖徳&馬子【⑨の子】
⑫旧天武陵-645-ワカミタリフ-善徳&蘇我蝦夷【⑪の子】
⑬旧持統陵-645-?-蘇我入鹿【⑫の子】

大和民族は『うるわしの土地』を求め大陸から大量に移動してきました。
まずは西暦330年頃から半島南部を、460年頃からは百済を通って。
1回目の代表は旨(崇神)、2回目は武(応神)&男弟(継体)です。
で、各々の起因は1回目が楽浪郡の崩壊、2回目は高句麗の南下です。
書紀の隠したこの事実は、現代日本人には小説(書紀)よりも奇です。
というより、受け入れがたく、石渡論を無礼者と思いますよね。

しかし、考えようによっては当たり前だったのではないでしょうか?
大陸は寒かった。温暖な飢えない日本列島は『うるわしの土地』だった。
新羅を置き去り、自ら大和民族大移動し、海を渡り来ていたのですよね。
さあもう21世紀です。石渡論が世に出て4半世紀も経ってしまった。
ぼちぼち古墳を60年新しくして、真実を考え、受け入れませんか?。

隣家の酒樽から酒5升分のお金が入ったじいさんの名前の財布が
見つかった。稲荷山古墳の鉄剣・隅田八幡鏡・七支刀のことですよ。
じいさんはお酒を飲んでお酒を買いに行き転んだ。よかった。無実です。
ひいひいひいじいさんに妹夫妻はいなかった。雄略大王もいなかった。

まだまだまだまだ書きたいことありますが 最後にまとめを書きます。

石渡論は古墳年代を正しく求めスタートします。そのあとで書紀です。
ところが 不幸な通説は架空雄略大王の実在からスタートし迷走中。

石渡信一郎が真にすばらしいのは 日本書紀編集者たちが持つ
・ひとりの実在人物をふたり・さんにん・・と分けざえるを得ない苦悩。
・架空大王をひとりふたり・・30人31人と創造せざるを得ない苦悩。
・時代を60年120年180年240年・・神話へと古くせざえるを得ない苦悩。
すなわち、『真実が書きたい』と言う叫びを痛切に理解している事です。

見事な万世一系の筋書とは異なる飛んでた真実があるのだから
書紀は真実を書けば書くほどでたらめになる自己矛盾を持つ。
書紀は でたらめではない。でたらめにならざるを得なかった。
石渡説がトンでるのではない。飛ばされた真実を探しているのです。
『飛ばして申し訳ないという良心の呵責を持った家系図』も眠るはず。
これを見抜き信じるから、真実が救い出せるのです。すばらしいです。

私は近日、以上を前書きに『大和民族大移動』という本を買きます。
石渡信一郎を東大か京大の古代史教授に推挙するために。。で、
副題は『書紀編集者の良心の呵責を見抜いた石渡信一郎と林順治』


で、聖徳太子と蘇我馬子と用明大王 そして アメノタリシホコは
すべて たった一人の人物です。その人を分けて書いているのです。
  • 2013-03-02 09:04
  • むらかみからむ
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[C36]

むらかみからむ様
コメントありがとうございます。

古代史は10人いれば10通りの解釈がまかり通るところです。
ですから前提条件が違うと議論がかみ合わない事になってしまいます。

長文頂きましたが、むらかみからむ様は弥生時代の人口を何万人ぐらいとお考えでしょうか。
  • 2013-03-02 17:10
  • ざる
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