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郷歌

【きょうか】
漢字で朝鮮語を表記した新羅から高麗時代の詩歌。13世紀末の僧一然(1206年―1289年)の編纂した《三国遺事》に採録された14首と,《均如伝》に付された高麗の僧均如(917年―973年)作の《普賢十願歌》11首が残っている。 




百科事典マイペディアより


残っているのだから郷歌25首は図書館で調べれば分かると思っていたのですが、甘かった。


◎最初に見た本
韓国文化シンボル事典 監訳 伊藤亜人 平凡社 2006年(総ページ数864 )

 この事典には「郷歌」の項がありません。
「文字」の項でも郷歌に触れていません。
「文字」の項で驚いたのは「神話」という小見出しに
 〈文化の始まり〉漢字の起源は東夷(朝鮮)にあるとされる。
 と書いてあることです。

漢字の起源が東夷(朝鮮)にある理由は「黄帝の時代に朝鮮で神仙から教典を授かった」と伝えられているからだそうです。
監訳の伊藤亜人氏は東京大学東洋文化研究所助手、教養学部教授、大学院総合文化研究科教授。2002年に大韓民国文化勲章を受章しています。


◎2冊目
韓国語概説 梅田博之監修 大修館書店 2004年

 〈郷歌の問題点〉(P55)
 郷札は韓国語を忠実に表記することに成功している。
 ところが郷札は発展の道を歩めなかった。
 統一新羅時代の一時期だけ栄え、滅びてしまったのである。
 文学活動が盛んだったとしたら続いたかもしれない。
 韓国語の音節構造が複雑だということも大きな障害になったと思われる。



◎3冊目
カラー日本語版 韓国伝統文化事典 国立国語院(韓国)編 教育出版 2006年
(P342~344)
 郷歌は、初めは集団で歌う四句からなる短い歌だった。やがて個人の感情を表現しようとしだいに長くなり、洗練されたものは、十句形式で、宗教的精神や英雄談ともに個人の叙情的な感情を表現するようになった。郷歌ははじめ、1~3世紀ごろ、仏教を広める目的で僧侶がつくり始めた。古い文献を見ると、郷歌はその意味するところが気高く、句節が清く、美しいと記録されている。作中には…(以下略)…


・・・ちょっと待ったあ。
郷歌の一つ「処容歌」は男が夜遊びしてかえってきたら妻が誰かと寝ていたという歌です。

(処容歌)
東京明期月良 夜入伊遊行如可       東京の明るき月に夜更けまで遊び
入良沙寢矣見昆 脚烏伊四是良羅      帰りて寝床を見るに脚が四本なり
二肹隱吾下於叱古 二肹隱誰支下焉古    二つは吾がものにして二つは誰がものぞ
本矣吾下是如馬尾隱 奪叱良乙何如爲理古  本は吾がものなれど奪いしを如何にせん

万葉集の新羅郷歌(ヒャンガ)起源説は誤りである!より引用)

どこの「意味するところが気高く、句節が清く、美しい」のでしょうか。
さらに「韓国語概説」によると「郷歌は統一新羅時代の一時期だけ栄え、滅びてしまった」とあります。
新羅の仏教公認は528年とされていますからで、1~3世紀に仏教を広めるというのはないです。




◎4冊目
万葉集歌の原形 姜吉云 三五館 1995年
第5章 万葉集歌の郷歌(ヒャンガ)の歌体比較

数首が和訳されていたので参考になりました。しかし。

 当時の状勢からみて、皇室やその周囲の渡来系支配層が韓半島との因縁を絶たれてよりどころが無くなり、かれらの出自を隠す必要が生じたからだと考えられます。万葉集歌の大半が韓半島からの渡来人やその二、三世などの手によって詠われ、あるいは編纂されたものであれば、郷歌の歌形式や表記法は勿論のこと、誓記体などの表記法までもが、万葉集歌に相当な影響をもたらしたと考えるのが当然です。(P382~383)

反論は、後でまとめて述べます。




◎5冊目
語源探求 日本語語源研究会編 明治書院 平成3年
郷歌の漢字の用法と万葉の漢字の用法 藤井茂利(P190~212)

 今日残存している郷歌二十六首で、歌謡の全てを一字一音の音仮名で表記しているものは見えない。
 日本の表記の方法には古朝鮮での用法の影響を受けている
 例えば朝鮮系人の名が見えており日本の文筆記録は頭初から朝鮮系渡来者によってなされていたと考えられる。


反論は、後でまとめて述べます。


◎6冊目
韓国史の再検討 韓国読書新聞編 学生社 昭和49年
10 郷歌と民族情緒(金烈圭)P77~ 

いくつかの郷歌の内容が書いてあります。

【薯童謡】善花公主に会いたいと思った薯童が、慶州の子供たちにさつまいもを分け与えて
     「公主が見知らぬ男と情を通じた」という内容の歌を教え、全国に広げて願いを
     かなえさせた
【処容歌】疫神に妻を奪われ、いっしょに寝ているところを見て作った逐邪の歌
【願往生歌】広徳が死ぬと、かれの親友がその妻を求めたが、妻は拒絶した

『三国遺事』に載っている十四首の郷歌のうち、八首の詩歌に呪歌、あるいは呪歌的な要素の存在が分かった。さらに、その一部は民間伝承、つまり伝説の枠のなかに入っていることもわかった。(P83)




以上、郷歌についてみてきたのですが、同時代の日本には万葉集がありました

ところが、一般的に、半島からの渡来人(記紀には帰化人と書いてあります)が日本に仏教や寺院建築技術などを伝え、文化・政権形成に大きな役割を演じた、といわれています。

日本書紀によると渡来人の多くが百済人だと考えられています。

しかし百済語は新羅語と違うのですから、百済人が新羅の郷歌を持ち込んだはずがありません。

万葉集が郷歌の影響を受けているなら「呪歌的な要素」が万葉集に薄いのも不思議です。


では反対に、郷歌が日本の影響で作られたと考えてみます。

◎梅田博之氏監修「韓国語概説」
>郷歌は統一新羅時代の一時期だけ栄え、滅びてしまった
>韓国語の音節構造が複雑だということも大きな障害になったと思われる。


日本では天皇から防人まで歌を歌っていました。
日本と新羅には民間交流があったはずです。
新羅で漢字を借用した万葉仮名を真似た郷歌が一時期つくられても不思議はありません。



◎藤井茂利氏「語源探求」
>今日残存している郷歌二十六首で、歌謡の全てを一字一音の音仮名で表記しているものは見えない。

韓国で漢字を借用した音仮名表記が発明されたのなら、その初期段階に「歌謡の全てを一字一音の音仮名で表記しているもの」があってしかるべきだと思います。
いきなり完成された表記方法がとられているのは万葉仮名を真似て応用したからだと思います。

倭と新羅は白村江の戦いまでは交流があったので新羅に郷歌の風をもたらしたけれど、白村江の戦い以降、関係が薄れ、半島の郷歌は廃れたと考えたほうが、理解しやすいように思います。



【資料】
娜々志娑无のぺぇじ
【言語系電波大祓】
古代朝鮮語解読のさわり






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