Entries

【拉致問題】後漢書鮮卑伝 3

つづき


烏侯秦水(遼河流域)の魚を獲りたかったが鮮卑族は漁業が出来なかった。
そこで汙(倭)国を襲い漁業に巧みな汙(倭)人を千余家さらって漁業させた。
と『後漢書』にある。


考証1(要旨)
日本列島以外に汙(倭)国の比定地はあるだろうか。

690px-Map_ofThe_east_barbarian_1.jpg
2世紀頃の東夷諸国と東沃沮,北沃沮の位置。(沃沮@wikipediaより引用)

遼河中流域の鮮卑族の領域ならば領内に「擊倭人國」と書くはずがない。
遼河下流域など漢の領域から民をさらう事は出来ない。
鮮卑と漢の領域でなく日本列島でもないとしたら東沃沮あるいは「シ歳」だろうか?

東沃沮あるいは「シ歳」から遼河中流域まで千家の民を運ぶ方法を考える。
・捕えた千家の漁民を縛って何百キロも歩かせる?・・・無理。
・船に乗せ河川を遡り、遼河へ通じる土地に運ぶ?・・・山がある。
・船に乗せ半島をぐるっと回る?・・日本列島の方が近い。

※倭の領域でもある半島南部は日本列島とともに可能性がある。




考証2(要旨)
鮮卑がはるか遠い日本列島の倭人をさらったとして、思いついたこと。

アメリカ大陸に渡った白人が原住のインディアンを(推定1000万人以上)殺してアフリカの民を(推定1000万人以上)運んだのはなぜだろう。

インディアンを奴隷にすればいいのになぜ殺してしまったのだろう。

インディアンを奴隷にした場合、インディアンには土地勘あるから逃げれば仲間の元に帰れる。逃げ帰って仲間とともに白人に復讐するかもしれない。

一方、アフリカから奴隷として運ばれた民は逃げてもアフリカに帰る術が無いので、逃げたり反抗したり出来なかったのではないか。


日本列島からさらわれて遼河中流域で漁業させられた倭人も同じだったのではないか。
漁船で河口まで逃れたとしても日本列島は遥かに遠く、河船は外洋に適さない。




http://www.pref.tottori.lg.jp/45947.htm">青谷上寺地遺跡 戦いの痕跡
 http://www.pref.tottori.lg.jp/45947.htm
>青谷上寺地遺跡から散乱状態で見つかった100体を超える人骨。そのなかに見られる多数の傷ついた人骨。…(中略)…西暦2世紀代のもの<

青谷上寺地遺跡は海岸沿いにあり漁業を営む人々が暮らしていた。
『後漢書』の「於是東擊倭人國 得千餘家」は西暦178年なので年代も合っている。

弥生時代、墓の副葬品としての武器は多いが実際の戦闘の痕跡は少ないという。
石鏃が刺さった状態で葬られている例は有名だが戦闘ではなく宗教的なものではないかといわれている。


そんな中、鳥取県の青谷上寺地遺跡は大変異質だ。


だからといって鮮卑の長・檀石槐が海賊を雇って倭国を襲い青谷上寺地の漁民千余家をさらっていった、と断定しているわけではない。

『後漢書』に「倭国を撃って千余家さらい魚獲りに従事させた」とある。
撃った場所が青谷上寺地だった可能性もあるのではないかと思うのだがどうだろう。



 * * * * *



ところで、遺跡サイトの鹿のシンボルマークが以前から気になっている。
卜骨を表わしているのだと思うが、元絵のモチーフは船だと思うからだ。
伊都の港から卑弥呼の館まで
 鳥取県空山古墳群の壁画




.
関連記事
スポンサーサイト



この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
http://zaru3386.blog.fc2.com/tb.php/286-68184b34

トラックバック

コメント

コメントの投稿

コメントの投稿
管理者にだけ表示を許可する

Appendix

プロフィール

ざる

Author:ざる
ganko*k8.dion.ne.jp(*→@)
リンク・引用:フリー(連絡不要)
書籍やネットからの引用文は
緑色にしています。

アップ後1ヶ月以上経った記事の変更は追記にしますが、アップ後数日の記事はことわりなく修正する事が多いです。

ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード

QR