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伊都の港から卑弥呼の館まで

邪馬台国までの行程で邪馬台国が博多にあり卑弥呼の館は太宰府だと書いた。

邪馬台国は狗奴国や投馬国と同様、倭人の国のひとつであり、倭の国々が外洋交易で潤っていた様子は古墳の壁画や土器の線刻画として残されている。

鳥取・妻木晩田遺跡近くの角田遺跡の土器の線刻画もそのひとつ。
邪馬台国の伊都の港もこんな様子だったろう。

魏志倭人伝:
邸閣(立派な高楼)の国があり、国には市があり、双方の有無とする物を交易し、大倭にこれを監督させている。女王国より北は、特別に一大率を置き、諸国を検察させており、諸国はこれを畏れ憚っている。常に伊都国で治め、国の中では刺史の如くある。王が使者を京都(洛陽)や帯方郡、諸韓国に派遣したり、郡使が倭国に及ぶときは、皆、港に臨んで点検照合し、文書、賜物を女王に詣でて伝送するが、間違いはあり得ない。

http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/kanbun/wakoku-kanbun1-gisi.htm

外洋船(双胴船)で伊都国に到着すると、荷物を丸木舟に積替えて御笠川を卑弥呼の館(太宰府)へ向かう。
その際、伊都国に常駐する邪馬台国の監査官(刺史)が厳重に点検照合する。

土器には港に着いた外洋船と川を上る丸木舟、港の物見櫓と倉庫群が描かれている。
同じような風景は鳥取だけでなく博多や有明や若狭など、多くの港にあったと思う。

sumida.jpg

上の米子市埋蔵文化財センターにあったPDFの展開図を使わせていただく。
線刻画の解釈はいろいろあるけれど私は左端が双胴船だと思う。

修正展開図


双胴船:
e5622735.jpg インドネシアの双胴船


物見櫓と高床建物:
台湾の櫓

インドネシアの高床建物



しかし白村江敗戦の後、太宰府から畿内に遷った大和朝廷(邪馬台国)は朝鮮半島や中国との交易に消極的になり、海の民の自由を奪い、抵抗勢力を「海賊」と呼び、平安時代の国風文化を生むことになった。
中世に復活した外洋交易は江戸時代の鎖国政策によって再び廃れた。

とはいえ日本人はもともと海の民なので近年まで近海は帆船が満ちていた。

串木野の小型帆船(和船)
昭和35年頃まで、串木野の五反田川の河口の砂州には、帆船が帆柱を列べていた。


八重根遺跡について、その2

1900年のころ明治時代沖縄の糸満の漁師は、伊豆大島まで4・5日で到着したと言う記録があります。




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