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【帆船資料】日本

パソコンのあちこちに保存してある帆船資料をまとめたい。(随時追加する予定)
なお、期間が過ぎた新聞記事はリンク切れになっている。



準構造船
ブログ「お絵かきじいさんのある日 古代の舟、その2」の図入りの解説が分かりやすい。
http://teda.iza.ne.jp/blog/entry/441177/

この方の「古代の舟、その1」に古代日本の航海術について大切なことが書いてあった。
白村江の闘いの前…(中略)…豊璋出発に当たっては五千あまりの兵を率いて護送…(中略)…次いで増派、派遣…(中略)…二万七000人を率いて新羅へ向かったと…・とある。

私はその時代これほどの影響を半島に及ぼせるほどの兵員をどうして対馬海峡を渡って送ることができたのか不思議でしょうがなかった。
数そのもの、あるいは表現に多分誇張はあるであろうが、このような兵力を送るには、大きい舟が多数なければならない。倭にはそれだけの舟を建造する技術、資材があったのだろうか。

http://teda.iza.ne.jp/blog/entry/440307/

□倭にはそれだけの舟を建造する技術、資材があったと考えている。
その証拠が古墳壁画に描かれた帆船・双胴船であり、双胴船の積載量は大きい。
この記紀の記述も双胴船があったことの傍証になることに今さらながら気がついた。



http://www.nauticalarchaeologyjp.com/news/20060507385.html">巣山古墳の「準構造船」?
http://www.nauticalarchaeologyjp.com/news/20060507385.html
http://osaka.yomiuri.co.jp/news/20060508p202.htm
つい先日出土した船材かと思われる木材について。報告者や実物を見てみないことには何ともいえませんね。

奈良・巣山古墳から出土

 奈良県広陵町の国特別史跡・巣山古墳(4世紀後半)の周濠(しゅうごう)から出土し、遺体を陸路で運ぶ「霊柩(れいきゅう)船」に載せた棺(ひつぎ)の蓋(ふた)とされた大型木製品が、丸木舟から進化した「準構造船」の「波切り板(竪板)」の可能性が高いことがわかった。大阪市平野区の長原高廻(まわ)り2号墳(4世紀末)などで出土した船形埴輪(はにわ)の波切り板と酷似しており、霊柩船の形は埴輪とほぼ同じで、こうした船形埴輪自体が霊柩船を模したものであった可能性が出てきた。

 同県立橿原考古学研究所の岡林孝作・主任研究員が近く報告書をまとめる。

 大型木製品はクスノキ製で、長さ2・1メートル、幅約80センチ。今年2月、調査結果を発表した広陵町教委は、石棺の蓋にあるような突起があったことから、大型木製品は、霊柩船に載せた木棺の蓋と推定した。

 しかし、岡林主任研究員は▽長原高廻り2号墳の船形埴輪の波切り板と形状や文様が一致する▽裏面にある溝や側面の長方形の穴が準構造船を造る技法と同じ▽材質も船材に使われるクスノキ製――などから、大型木製品は船首と船尾にある波切り板と判断した。

 岡林主任研究員は、棺蓋の根拠となった突起については「飾りの旗竿(ざお)などを立てる綱を結びつけた部分ではないか」とみている。

 これに対し、町教委とともに調査した河上邦彦・神戸山手大教授(考古学)は「船材の可能性も検討したが突起の説明がつかず、構造上、棺蓋以外ではあり得ない」と反論している。

 波切り板とみた場合、一緒に出土した船の側板の形をした部材などと組み合わせると、船形埴輪とほぼ同じ形に復元できる。

 準構造船は大型化し外洋航海もできるようになった船。大王らの遺体を、仮安置する「殯(もがり)」の場から古墳まで運んだという霊柩船を、町教委はゴンドラ形の簡易な船をイメージしていたが、準構造船そのものが野辺の送りに使われていたこととなり、論議を呼びそうだ。

 長原高廻り2号墳の船形埴輪は1989年に古代船「なみはや」として復元され、話題を呼んだ。

 辰巳和弘・同志社大教授(古代学)の話「波切り板の可能性は十分あり、葬送儀礼に使われた船の形が見えてきた。そもそも船形埴輪は、葬送に使われたこうした船を模したものではないかとも考えられる」

(2006年05月08日 読売新聞)




http://www.nauticalarchaeologyjp.com/news/20060420368.html">古代 韓日交流
http://www.nauticalarchaeologyjp.com/news/20060420368.html
http://mindan.org/shinbun/news_bk_view.php?page=1&subpage=1188&corner=4

古代の日韓交流について、くすのき製の木棺についての記事を見つけました。くすのきは丸き船に使うのに優れているとされています。これだけ大きな木材を運んだのですから、当時、大型船があったのかも知れません。また、現在考えられている以上に交流が盛んだったのではないでしょうか?

慶南7号墳で発見 日本にみられるクスノキ製木棺

古代 韓日交流の鍵

 一昨年、慶尚南道昌寧郡の松 洞古墳群(7号墳)からクスノキ製の木棺が発見された。長さ3・3㍍、幅0・8㍍の木棺であり、これほどのクスノキは、韓半島では自生しない。わずかに済州島にみられるが、日本列島のようには巨木にならない。

 木棺は船のように湾曲し、かなりの大きさのクスノキをくり抜いたものである。古墳は植民地期に盗掘されていたが、幸い残された土器や副葬品などから、この地域の首長クラスの墳墓で、500年前後に造営されたとみられている。

 昌寧は、伽耶諸国の一国、比 国であり、『日本書紀』にも倭が関連した国(比自)として現れる。文献などにより6世紀中頃には新羅に服したとされるが、この度の発掘調査によって、古墳の築造法や出土遺物から新羅の強い影響が確認され、古墳の性格をめぐって今後の調査結果がまたれる。

 最も興味をひかれるのは、クスノキ製の木棺の来歴である。これほど保存状態のよい舟形木棺の出土例はなく、その材質と形態から、倭との関係が一部で取りざたされていた。

 偶然にも発掘を担当した国立昌原文化財研究所と早稲田大学朝鮮文化研究所とは共同研究を進めていることもあって、発掘直後に木棺を古墳内で直接みる機会に恵まれた。

 その時、私の脳裏をかすめたのは、なぜ韓半島で発見される木棺は、ことごとく韓半島で自生しない木材が利用されているのかという疑問である。1971年に発見された百済の武寧王陵も、王と王妃の棺は日本からもたらされたコウヤマキであることが後に明らかにされた。

 百済最後の都があった扶余の陵山里古墳群(王陵地区)でも、5基の古墳から出土した木棺片は、韓半島には自生しないコウヤマキであった。一方、新羅の都・慶州にある98号墳や金冠塚の棺材も、最近の調査でクスノキ製であることが判明している。

 ところで、日本の前方後円墳もまた多くがクスノキを木棺に利用していたことが明らかにされている。

 クスノキは腐食しにくく、棺材に適しているのである。それゆえ、韓半島の百済、新羅、伽耶の国々の諸王たちは、わざわざ日本列島の棺材をもとめたということになるのではないか。

 一見、埒外のような推定に思われるかも知れぬが、実は中国古代では、そのようなことは当然であった。後漢時代の『潜夫論』によると、漢の都・洛陽の人々は、梓やクスノキなどの棺材を、数千㌔隔てた江南地方から運び込ませていたのである。

 これまで韓半島南部の豊富な鉄が、6世紀頃まで日本列島にもたらされていたことが注目されていたが、その代価については諸説あって不明とされてきた。生口(奴隷)説、コメ説、塩説など、どれもが説得力に欠けていた。

 日本の棺材こそは、まさに鉄の代価になりえたのではなかろうか。御世の国に旅たつ王者たちにとって、中国同様の良質な棺材を求めることは切実であったはずである。

 このたび伽耶の一国、比自国から出土したクスノキ製の木棺は、古代韓半島と日本列島の交流を解き明かす大きな鍵となるにちがいない。

■□
プロフィール

李成市(い・そんし)

 1952年名古屋市に生まれる。早稲田大学大学院文学研究科修了。文学博士。横浜国立大学助教授、早稲田大学文学部助教授を経て現在、早稲田大学文学学術院教授。早稲田大学朝鮮文化研究所長。

(2006.4.19 民団新聞)


□民団新聞のリンク元に写真
生口は奴隷ではないしクスノキやコウヤマキは鉄の代価ではないが、別項で。
参考:高槻市立埋蔵文化財調査センター ◆適材適所−クスノキ−



http://www.nauticalarchaeologyjp.com/news/20060209329.html">舟形木製品出土
http://www.nauticalarchaeologyjp.com/news/20060209329.html
http://www.kochinews.co.jp/0601/060128headline07.htm

県内初の舟形木製品出土 四万十市の坂本遺跡

県埋蔵文化財センターが発掘調査を進めている四万十市坂本の坂本遺跡で、祭祀(さいし)に使ったとみられる15世紀の舟形木製品が27日までに出土した。航行の安全を祈って作られた可能性が高く、中世の舟形木製品が確認されたのは県内で初めて。

 舟形木製品は、発掘調査区の南側から陶磁器などとともに見つかった。長さ30センチ、幅と深さはいずれも10センチ。腐ってはいないが、非常にもろい状態だった。

 船体の中央部には直径2センチほどの穴が開いており、この部分に帆を立てていた可能性が高いという。舟形木製品は古墳時代を中心に、全国では多数見つかっている。

 同遺跡は四万十川と中筋川の合流点に位置し、貿易陶磁器が多数出土。同センターの坂本憲昭専門調査員は「近くの香山寺や坂本遺跡が、物資の流通の要衝だったことをさらに裏付ける大きな証拠の一つになった」としている。

 地元住民らが遺構保存要望

 一方、地元坂本地区の吉武澄夫区長らは27日、同遺跡から見つかった瓦窯跡3基や石段などの遺構を現地保存するよう求める陳情書を沢田五十六市長に提出。沢田市長は「窯跡は国土交通省に工事設計変更の協力を求め、石段についても地区の共有地に移築する方向で検討したい。香山寺全体の調査を始め、坂本遺跡との関係を調べた上で、保存や展示方法を考える」としている。

高知新聞


□リンク先に写真あり



http://www.nauticalarchaeologyjp.com/news/20051116252.html">日本最古の石敷き水路 原の辻遺跡
http://www.nauticalarchaeologyjp.com/news/20051116252.html
http://kyushu.yomiuri.co.jp/news/ne_05111602.htm
長崎県教委は15日、同県壱岐市の原(はる)の辻(つじ)遺跡で、東アジア最古とされる船着き場跡の東側から南側に延びる人工水路を確認したと発表した。水路は出土土器から弥生時代中期前半(紀元前2世紀ごろ)の築造で、石を敷いた痕跡があり、石敷きの水路では日本最古とみられる。




舟・船棺をつかう埋葬法
―四川省昭化県宝輪院墓と巴県冬笋壩墓の例―(PDF)

http://repository.osakafu-u.ac.jp/dspace/handle/10466/11835
Issue Date 2011-03-31




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