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国立歴史民族博物館 2

前回書いたように、魏志倭人伝に弥生時代の日本人は自ら鉄を採りに半島南部に進出していたことがに書いてあるのにパネルには「青銅器・鉄器の原料の大部分は、朝鮮半島や中国に頼っていた。」と書きながら、食事に関しては「手づかみで食べ」ていたことを紹介している。

展示4
R0024816弥生人の食料

弥生人の食料
弥生人は、米・粟・稗・豆などを栽培し、ブタを飼い、狩りもつづけ、魚もとった。米は甕で調理した。西日本では、2〜3世紀には食べ物を1人ずつ鉢や高杯に盛るようになった。3世紀に中国でできた「魏志倭人伝」には、倭人は高杯を使って、手づかみで食べる、とある。収穫が安定し、栄養価の高い米を食べることによって、人口は増加して、村の規模は大きくなり、村の数も多くなった。


ヤフー掲示板でも「手づかみ」を当時の日本が遅れたていた証拠として取り上げた人がいたけれど、手づかみは現在もインドを始め世界中に見られる風習で、インダス文明のインドと古代日本が同じ風習だったことが遅れていたことになるはずがない。



展示5
R0024817水稲の広がり

水田稲作の広がり
─中国から日本列島へ─
今から約7000年前に中国の長江下流域で始まった水田稲作は、約4000年間かけて日本列島に伝わります。紀元前10世紀後半頃に九州北部で本格的に始まり、西部瀬戸内、近畿、東海、東北北部、南関東の順に、約800年間かけて広がっていきますが、その受容形態はさまざまであったようです。
この図は日本列島の各地でもっとも古い水田稲作の年代を示したものです。



日本の水稲が東南アジアから直接日本に伝わったことが植物学的に証明されているのになぜ半島経由の図を使っているのだろう。
考古学的にも以前は弥生文化の源流であるかのようにいわれていた半島の松菊里遺跡が北部九州から渡った人の作った遺跡だと分かった今、この図は無理がある。
参考:考古学のおやつ 萬維網考古夜話 第55話「高天原はなかった」



展示6
R0024822小さな水田

小さな水田
青森県田舎館村垂柳遺跡
北部九州で始まった水田稲作は、500年ほどで、本数の最北端まで伝わる。水田を作る技術も、西日本とさほど変わらない。水田1枚あたりの面積は10㎡程度で、非常に狭い。水田は、水を張るために水平な田を作らなければならない。そのためには、1枚の田の面積を狭くするのが、もっとも容易な方法であった。



こういう狭い水田が東南アジアと同じであることを書かない。

日本とスマトラの小区画水田
群馬県高崎市の御布呂遺跡から発見された古墳期の水田(左〕は、1区画3-5㎡で、インドネシアのスマトラ島に見られるルパックと呼ばれる小区画水田(右〕とよく似ている。少ない水を効率的に田面にゆきわたらせる工夫である。(御布呂遺跡・高崎市教育委員会)

http://suido-ishizue.jp/daichi/part2/01/06.html

スマトラの水田 (←新書からスキャンした記憶だけれどどの新書か思い出せない…)



展示7
R0024835弥生の始まり

弥生時代の始まり
北部九州の石斧、稲の穂を摘む石器(石包丁)、米などを貯える壷は、朝鮮半島南部のものと似ている。濠で囲んだ防御集落や、大きな石を墓標にした墓(支石墓)も共通する。その一方、煮炊きに使う甕や、打製の石器は、縄文時代の伝統を残している。弥生時代は、朝鮮半島南部から渡ってきた人々が伝えた本格的な稲作文化と、縄文時代からの強い伝統が結びついて始まった。


「弥生時代の始まり」を示すパネルの中心が朝鮮半島なのはひどい。
だいたい半島の松菊里遺跡が北部九州から渡った人の作った遺跡なのだから半島南部の遺跡も鉄を採るため日本から渡っていった人々の遺跡だろうに。


展示8
R0024829東アジア


そして弥生文化を中国と朝鮮半島とだけ比べる。
タイやマレーシアやインドネシアの古代と日本の古代を比べようとしない。




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